第5話 妻体験の相手は……

「妻って……どういうこと?」


 ベルシュから、当然であろう疑問が投げられる。


「天職検査で、わたしには妻の才能があることがわかったんだ。逆に言えば、妻の才能しかないとも言える……。えぇいっ! こうなったら、妻の道を極めてやろうじゃないの!!」


 わたしは両手で机をバンっと叩くと、勢い良く立ち上がった。

 吹っ切れた。迷いは微塵もない。天職結果に従ってみよう!

 ……ただし、ユガリノス先生じゃない相手と。


「実習内容は『妻』。実習先は『ベルシュパン屋』。これで決まり!! 運命は自分の手で切り拓くのだ。えいえいおー!!」

「なにを突然っ⁉︎ オレ、ノアナのこと友達としか思っていないし!」

「わたしはベルシュのこと、美味しいパンをくれる人だと思っているよ! 他店のパンを食べるな。オレのパンだけを食べろって言うなら、そうする。浮気しない。ベルシュパンだけを食べ続ける!」

「はぁ? オレじゃなくて、うちのパンを気に入っているだけじゃないかよ!」

「そうですけれど? ベルシュパン屋のパン、どれも美味しい。大好き。毎日食べられる。これはもはや、愛と呼んでいいレベル」


 わたしの人生を方向づける重要な話をしているというのに、ルーチェは腹を抱えて笑っているし、ベルシュは呆れた顔をしている。


「パンが好きだって言うならさ。確認させてくれ」

「いいよ」

「どうやってパンを作るか、知っている?」

「簡単簡単。小麦粉を練って、形にして、焼けばいいんでしょう?」

「どうやって小麦粉を練るわけ?」

「ええっ⁉︎ 考えたことがなかったけれど……。両手でこうやって擦り合わせて」


 両手を合わせ、前後に動かして擦る動作をすると、ベルシェの頬が引きつった。


「言い方が悪かった。材料を聞いたんだ。小麦粉はそれだけだとサラサラしていて、まとまらない。小麦粉を練るには他の材料が必要だ」

「ああ、材料の話ね。最初からそう言ってよ。えぇと……クリームパンにはクリーム。チョコパンにはチョコ。もちもち白パンにはもちもち。メロンパンにはメロン」

「…………。パンを焼くときの温度は?」

「六千度」

「太陽かっ⁉︎」


 ルーチェからツッコミが入る。ベルシュは苦い顔をして肩をすくめた。


「不合格。ベルシュパン屋とは破局してくれ」

「なんでっ⁉︎」

「パン職人になるには、知識と技術と経験が必要だ。それに、朝早く起きなくてはならない。お寝坊ノアナは、パンを食べる客にしかなれない」

「ガーン!!」


 朝に非常に弱いわたし。ベルシュパン屋に嫁ぐ夢は跡形もなく散った。


「まだ残っていたのか」


 死神の仮装をしているかのような、全身黒服男が教室に入ってきた。

 ユガリノス先生である。


「下校時刻はとうに過ぎている。早く帰りなさい」

「ノアナが、春休みの実習先を書けなくて困っているんです。妻体験をしたいようなんですが、家事ができないズボラなノアナでも、受け入れてくれる男っていますか?」

「ルーチェ、勝手に話さないでよ!!」

「しょうがないじゃない。職場体験実習をしないと、単位をもらえないんだよ。ノアナが二年生にならないと困る」

「ルーチェ、ドライな人間だと思っていたのに……。わたしに熱い友情を感じてくれていたんだね!」

「勉強嫌いなノアナのおかげで、試験で最下位にならずに済んでいるんだもん。ノアナが留年しちゃうと、あたしとベルシュで試験の最下位を争うことになっちゃう。万年最下位のノアナが必要なの」

「それが理由⁉︎ 友情はどこにいった⁉︎」

「友情ね。はいはい。ここにあるある」

「なんか適当! 流されている!」


 わたしとルーチェが騒ぐのを、ベルシュがニコニコ顔で見守っている。いつもの構図だけれど、違うのは、ユガリノス先生がこの場にいること。

 先生は、わたしの実習計画書を手にした。


「体験する職業……妻?」

「あ、あのっ! 特定の誰かさんの妻というわけではなくてですね。全世界に向けて発信しています!」

「全世界に向けて?」

「はい。特に、目の前の同級生に向けて!」


 瞬きひとつせず、ベルシュをジーッと見つめる。

 ベルシュは慌てて鞄を抱えた。


「早く帰って、パンを作らないと!」


 ベルシュは机にぶつかりながら、教室から出ていった。


 

 ベルシュの逃亡によって、ベルシュパン屋で実習する道は閉ざされた。

 残された道は、三つ。

 その一。ユガリノス先生の妻体験をする。

 その二。人気のないブラック会社で職業体験をする。

 その三。もう一度、一年生をやる。


「どれも嫌だぁぁぁーーーっ!!」


 机をバンバン叩くわたしの耳に、陰気な低音ボイスが届く。


「家事能力の低そうな君を、体験とはいえ、妻をして歓迎する男がこの世にいるだろうか? 爪楊枝のほうがまだ、需要があるだろう」

「なんて嫌味な発言! きぃーっ!!」

「それよりも、体験職業欄に妻と書くのはやめなさい。家事を体験したいなら、家政婦や清掃業務や料理アシスタント。はたまたベビーシッターなど、いくらでも書きようがある。なのに妻とは……。夫婦にしかできないことを体験したいのか?」

「夫婦にしかできないことって、なんですか?」

「私に聞くな」


 だったらルーチェに聞くしかないと顔を向けると、「知らないなんて五歳児か!」とのツッコミが入った。どうやらわたしは五歳児以下らしい。

 ユガリノス先生は咳払いをした。


「一般企業は体験者募集を締め切っている。融通の効く個人事業主も、今から面接となると渋い顔をするだろう。人が寄りつかないブラックな職場しか残っていないぞ。労働条件の悪いところにいると、働くことが嫌いになり、生きること自体がつらくなる。労働環境は大切だ」

「だったらどうすれば……」

 

 先生は短いため息をついた。モジャ前髪が、吐息でふわっと浮く。


「君はまったくもって、手のかかる生徒だ。仕方がないから、実習先に私の名前を書きなさい」

「は?」

「問題児の君を留年させたら、来期一年五組を担当する先生に迷惑がかかる。不本意だが、私が君の相手になろう」


 ルーチェが悲鳴をあげる。


「ちょちょ、ちょっと、ノアナできるの⁉︎ 先生って極度の潔癖症だよ! 人差し指で埃チェックされて、ネチネチと嫌味を言われるのがオチだよ!」

「…………」


 だが、他に道はなし。渋々、実習先の欄に『ユガリノス先生』と書く。

 運命に逆らおうとしたのに、結局、ユガリノス先生の妻体験をすることになってしまった。



 

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