第二章 お試し妻はじめました

第12話 お化けを追い払う魔法をかけてほしかった

 春休みに入って、二週間が過ぎた。

 日曜日の昼下がり。ルーチェと街で待ち合わせをして、お洒落なカフェでランチをする。

 ルーチェはアイスティーのグラスに差してあるストローをもてあそびながら、職業体験実習の報告をした。


「しつこく電話してくる、ヒステリックなクレーマー女がいたの。信用していたのに裏切られた。精神的苦痛を受けたから慰謝料を寄越せって。あたしに言わせれば、企業訪問も工場見学もしていないのに、どういった理由で信用していたのか不思議。人が良すぎるでしょ。それにさ、会ったことのないオペレーターに怒りのエネルギーを向けるなんて、情熱と気力と体力がありすぎ。元気な人だなあって、感心していたら、『あんたと話すと怒っているのが虚しくなるから、別な人と代われ』って……。あたしは、あなたともっと話したいのに! って訴えたら、電話を切られちゃった。クレーマー上司も『あなたと話すと、おかしな気分になるから話したくない』って避けるし。クレーマーと交流したいのに、なんで避けられちゃうんだろう。あたしのどこがいけないの? クレーマーとどうしたら仲良くなれるの?」

「ごめん。なんて言ったらいいのかわからない」


 ルーチェの悩みはレベルが高すぎて、おバカなわたしの手に余る。

 ルーチェはアイスティーを半分ほど飲むと、頬杖をつき、ニヤッと笑った。


「で、ノアナのほうはどうなのよ。モジャ髪のイヤミ攻撃に参っているんじゃないの? 肌荒れしている」

「実は……」


 わたしは素直に打ち明けた。


 ユガリノス先生は、いっぺんにはできないだろうからと、段階を踏んで教えてくれている。

 まずは家計簿。わたしは足し算も引き算も苦手で、毎回、財布の中身と合わない。

 家計簿と同時進行で教えてもらっているのが、就寝準備。わたしとしては完璧にできていると思うのだけれど、先生は神経質。カーテンが一センチ開いているだけでもダメらしい。

「夜だからって、カーテンを閉める必要があります? 全開でもいいんじゃないですか?」「君は夜に対して、恐ろしくオープンだな」このような会話のやり取りを頻繁にした。

 カーテン閉めが合格したので、次は戸締り。それも合格して、次は消灯確認。これが難しくて、電気を消す以外に、コンセントも抜かなければならない。毎回どこかしらのコンセントを抜き忘れる。

「コンセントを抜く必要があります? 入れっぱなしでいいじゃないですか」そう言ったところ、先生は、コンセントを抜くことでどれくらい電気代が節約でき、また、コンセントによる火災を防ぐことができるのかを説いたのだった。

 まったくもって神経質でめんどくさい男である。


「消灯確認が合格したから、今はベッドメイキングを頑張っているんだ。でも、シーツをピンっと張るのが難しくて。先生から『君の心を表しているかのように、よれたシーツだ』って嫌味を言われている」

「はぁーーっ」


 ルーチェは大袈裟すぎるほどのため息をついて、片手で頭を押さえた。


「まさにブラック職場。嫌味男にブレはナシ。で、ベッドメイキングの次は?」

「ゴミ出し」

「は? 春休みが半分終わったんだよ。なのに、妻体験のレベルが低すぎない? 料理にはいつたどり着けるの?」

「それそれ! 料理で素敵な男子の胃袋を掴みたいから教えてくださいって、頼んだんだよ。でも先生、料理は一番最後だ、って」

「春休みが終わっちゃうじゃん」

「ルーチェもそう思う? わたしも。あーぁ。料理が上手になって、素敵な人と結婚したいのに」

「ふ〜ん」


 ルーチェは気のない相槌を打つと、サンドイッチに齧りついた。


「そうだ! 先生、研修会に行っていて、今夜は帰ってこないんだ。ルーチェ、泊まりに来てよ」

「他人の家に泊まるの嫌い」

「つれないことを言わないでー! 東南地区にある、素敵な別荘なんだよ」

「別荘?」


 やはりルーチェも別荘に食いついた。貧乏人にとって、別荘は雲の上にある憧れの城なのだ。

 ルーチェが別荘の場所を詳しく聞いてきたので、泊まりに来てくれるのだと喜んだ。なのにルーチェは、環境が変わると寝られないと拒否した。

 

「ルーチェが泊まりに来てくれないなら、ベルシュを誘おうかな」

「いやいや。夫の出張中に男を連れ込んでどうする。マイナス一億点食らうよ」

「そっか……」

「それよりも、さ」


 ルーチェは一拍置き、意味ありげにニヤリと笑った。


「ふふっ。今夜はひとりだね。お化けが出ないといいね」

「はわわわわー!! 怖いことを言わないでっ!」

「ふふっ。森の中の一軒家。近くに人家はない。叫んでも、助けを求めても、誰も助けにこない。悲鳴を聞いているのは、フクロウだけ」

「にゃにゃにゃあー!」

「ノアナさん、動揺しているようですねぇ。お化けに襲われる。ふふっ。楽しいねぇ」

「全然楽しくない! 帰る!!」


 ルーチェは親友であり、悪友でもある。お化けが超絶大嫌いなわたしをビビらせて楽しんでいる。

 わたしは急いでアイスココアを飲み干すと、自転車を全速力で漕いで別荘へと帰った。



 ◇◇◇



 日中はポカポカ陽気だったのに、夕方から風が強まり、夜には強風となった。

 森がざわつく。まるでお化けがうなっているかのように──。

 湖が荒れる。まるで湖に住む未知の生物が暴れる前触れのように──。

 月は細く、雲の流れは早い。木々が激しく揺れ、別荘の窓がカタカタ鳴る。

 外を見るのを止め、カーテンをピッタリと閉ざす。


「どうしよう……本当に怖くなってきた……」

 

 ユガリノス先生は、一晩家を空けることを心配していた。

 食事を作り置きしてくれたし、スポンジに魔法をかけてくれて、流し台に置けばスポンジが動いてお皿を洗ってくれるようにしてくれた。またお皿とフキンにも魔法がかかっていて、拭いたお皿が戸棚に自動で戻るようになっている。

 なんて素晴らしい魔法!

 こんな便利な魔法があるのに、なぜ先生は毎回洗い物をしているのか不思議だ。


「それよりも! 先生ったら、肝心の魔法を忘れている」


 それは──お化けを追い払う魔法!!


「お化けが出たらどうしよう……。でも、戸締りしたもん。だから大丈夫。お化け、入ってこれないもん。ん? ちょっと待って。お化けって、壁を通り抜けられるんじゃ……」


 血の気がサァーと引いていく。動悸が激しくなり、胸を押さえる。


「お、おお、おおお、お化けなんて、いない。いないもん。うん。寝よう」


 まだ九時だが、寝るに限る。

 居間の電気を消し、二階に上がるためにエントランスに出た。


 トントン……トントン……。


 何者かが玄関の戸を叩いている。


「ひゃあぁぁーーっ!! おお、おおお、おばおば……!!」


 悲鳴によって切り裂かれた夜の間を抜けるようにして、訪問者がわたしの名前を呼んだ。


「……ノアナ……」



 

  

 

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