第11話 ジュリサス様の記憶
白亜の別荘の正面には澄んだ湖が広がっていて、カモがのどかに鳴きながら泳いでいる。あたたかな春風が吹き渡り、水面がそよぐ。
先生は別荘の裏へと歩いて行った。追いかけると、別荘の裏には庭園があった。
「わあーっ!! 写真集に出てくる庭みたいで素敵! 歩いてもいい?」
「どうぞ」
父は薬草師で、母は園芸師。両親の影響で、わたしも幼い頃から植物に関わってきたから、緑豊かな場所が大好き。
スキップするような軽やかな足取りで、レンガの小道を歩く。
小道の両側に植わっている多種多様な植物は、いつでも花を楽しめるよう、開花時期の異なる植物が組み合わさっている。その植物の合間に、キノコの形をした陶器が置いてある。
大樹の下にはベンチがあり、アーチには薔薇の蔦が絡まっている。
作業道具が入っている木製の小屋は、メルヘンの世界をイメージしたような赤い三角屋根と丸窓。
赤い帽子が見えたので茂みを覗いてみると、とんがり帽子を被った置物の小人が立っていた。
ラベンダーの根元に小さな家があって、その家の扉を開けてみると、木彫りのリスの親子が住んでいる。
「これって……」
記憶の引き出しが開き、忘れていた記憶が浮上する。
走って、ユガリノス先生のところに戻る。
「わたし、この庭知っている!! お母さんの仕事で、何回か来たことがある。キノコの陶器も小人もリスの親子も、わたしが選んだもの! わたしの好きなオーナメントを置いてもいいと言ってくれたのって……先生?」
母は園芸師として、東南地区にある別荘の庭管理を任されていた。
美しい庭なのだと母が誇らしげに話すので、草むしりの手伝いをするいう名目でついてきた。十分ほどで草むしりに飽きて、あとは遊んでいたけれど。
遊び疲れて、ふと別荘を見上げたら──二階の窓に若い男性が立っていた。
肩につくぐらいの、サラサラの金髪。菫色の瞳。王子様のように整った顔と、儚げな雰囲気。
手を振ると、男性は慌ててカーテンを閉めた。だがすぐに窓が開いて、「君の好きなオーナメントを庭に置いてもいい。たとえば妖精とか!」と叫んだ。
わたしはこのとき、十四歳だった。男性の声を聞いたのは、これが最初で最後。
その後。窓辺に立っているのを何回か見かけたが、彼は痩せぎすで、不健康な青白い顔色をしていた。病人なのだろうと、思った。彼は、わたしがいるときに庭に出てきたことはなかった。
それからしばらくして母が病気になり、別荘の庭管理人を辞めた。
わたしは庭のことも、その男性のことも忘れた。
記憶の引き出しから流れてきた、母の優しい声。
──お母さんも、ジュリサス様から聞いたわ。お言葉に甘えて、ノアナの好きなオーナメントを買いにいきましょう。
「そうだ……。名前は、ジュリサス様……」
金髪で
黒髪で碧眼。陰気な容姿のノシュア・ユガリノス先生。
名前が違うし、髪と瞳の色も雰囲気も違う。
わたしは首を横に振って否定した。
「違うよね。ジュリサス様って名前だったもん。先生のお兄さんか弟?」
「ジュリサスは……死んだ」
「そうなの? いつ?」
「昔」
仕方なく答えているといった、重い口ぶり。わたしは口を噤んだ。
誰にでも話したくない過去がある。そしてそれを共有できるほど、わたしと先生は親しくない。
太陽が山際にかかる。風の冷たさに寒気がして、ブルっと震えた。
「中に戻るか」
「うん」
先生に促されて、別荘内に戻る。
エントランスに置いてある荷物が視界に入った瞬間、驚きのあまり言葉を失った。目にしている現実が信じられない。
「君が明るくて根が素直なのは、親御さんの愛情をたっぷりと受けて育ったからだ。親御さんとの思い出のある物を捨てる必要はない」
ピンクうさぎのぬいぐるみを手に取る。
ほつれていた糸も破れた穴も消え失せ、とれかけていた右耳がピンっと立っている。それだけじゃない。薄汚れていた布地が綺麗になっていて、まるで新品のぬいぐるみみたいだ。
「どういうこと? なんで、新しいぬいぐるみになっているの?」
「魔法で、新品の状態にした」
「ええーーーっ!!」
山積みになっている荷物に目を走らせる。
テーブル。椅子。ソファー。チェスト。台所用品。雑貨。衣類。本。靴。傘……すべてが新品に様変わりしている!
「どうして……」
「君の母親が亡くなって、四ヶ月だ。心の整理がついていないだろう。なのに、物を減らせなど、無神経だった。私は両親との関係が希薄でね。だから君の思いを汲み取ることができなかった。知らなかったとはいえ、汚いぬいぐるみだと言って悪かった。お父さんとの思い出、大切にしなさい」
うさぎのぬいぐるみをぎゅっと抱きしめる。柔らかい耳が顔にふれる。お日様に干したような、ぽかぽかとしたいい匂い。
ぬいぐるみをもらった日。お土産があることが嬉しかったけれど、それよりも二週間ぶりに父に会えたことが嬉しかった。抱きついて父の太ももに顔を埋めた。大きな手が、わたしの髪を優しく撫でた。
──お父さん、大好き!
──父さんは、もっともっと大好きだぞ!
──あたちのほうがもっと大好きだもん! 世界一大好き!
──父さんは、宇宙一ノアナが大好きだぞ!
感極まって、涙がぽろりとこぼれる。
「先生、ありがとう。すごく嬉しい! 環境が変わった今が物を捨てるタイミングなのに、でも捨てたくなくて。だけど、綺麗な別荘に古い物を置くのは申し訳なくて……」
「君は心から両親を愛しているのだな。そして、両親も君を愛していた。羨ましい。私は、両親との関係を築けなかった。この世からいなくなってほしいと、願っている……」
先生は話したことを後悔するように、鼻で笑い飛ばした。
「私の話などどうでもいい。それよりも、魔法で荷物を片付けるのはやめにする。妻体験実習の一環として、我々の手で荷物を運ぼう。引っ越しの後片付けというのも、妻の大切な仕事だ」
「うわっ! 最悪。イヤだ!」
「やらないのか?」
「はい。魔法でちゃちゃっとお願いします!」
「ふむ。やる気がないというわけだな。君は、引っ越しして一年たっても段ボールが山積みになっているタイプのようだ。片付けの項目、マイナス三十点。先ほどゴキブリ叩きの勇ましさとして二十点あげた。よって合計点は、マイナス十点」
「ぼふー! 死んだ」
妻体験、恐ろしい。最終日にはどこまでマイナスの点数になっているのだろうと考えると、体が震える。
すると先生は、交換条件を出してきた。それは、先生が魔法使いであることを秘密にするなら、魔法で荷物を片付けてくれるうえに、片付け項目をマイナス十点にしてくれるというもの。もちろんわたしは喜んでその条件を飲み、親友ルーチェにも話さないことを約束した。
その日の夜。わたしは鼻歌を歌いながら、ピンクうさぎのぬいぐるみを枕の横に置いた。そして、ふと、違和感にとらわれた。
「このぬいぐるみ。お父さんからもらったって、先生に話したっけ?」
話していないように思うのだけれど……。でも話していないのに先生が知っているわけがない。きっと、話したのだ。それをわたしが覚えていないだけで。
そう納得して、わたしはキングサイズのベッドで眠りに就いたのだった。
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