第3話 わたしと結婚したいんですか?
灰色の雲の狭間からこぼれ落ちる太陽の光が、噴水から吹き上がる水しぶきをキラキラと輝かせている。
ユガリノス先生は、噴水の周りに置いてある石のベンチに座っていた。
先生は、怒っているような憮然とした顔で唇を真横に結んでいる。学校でも大概こんな顔をしているので、この人は笑ったり喜んだり感動したりしたことがあるのかと、疑問に思ってしまう。
(まぁ、先生のことなんてどうでもいいんだけど……。あ、違う。これからはどうでもよくないのかも)
天職結果でユガリノス先生の妻と出たからには、赤の他人というわけにはいかないのかもしれない。妻になるのはお断りだけれど、学費をだしてくれる件には心揺さぶられる。
わたしは先生の前に立つと、叫んだ。
「天職検査の結果を聞いて、職業を決めようと思っていたのに! 先生の妻だなんて最悪です。お先真っ暗です。担任なんだから、責任をとってくださいっ!!」
「責任をとってもいいが……。私の妻と出たからには、責任の取り方としては結婚が妥当ということになるが?」
「なっ⁉︎ そ、そんなの絶対にダメっ!」
「そうだな。在籍中の生徒と結婚など倫理に反している」
「ですよね!」
「だったら、どう責任を取れと?」
「むむ……」
母が亡くなって四ヶ月。学校を卒業するまで、あと二年。
一番の問題はお金。二年も学費を払っていくほどの財産はなく、親戚は頼りない人たちばかり。よって、自力で生活費を稼ぐしかない。
だから一縷の望みをもって天職検査を受けに来たというのに、ユガリノス先生の妻という最悪な結果が出てしまった。
「検査官から聞いたんですけれど、先生はわたしの学費を出してもいいって、本当ですか?」
「ああ。君は見た目も幼いが、心も幼い。精神年齢、十歳ぐらいだろう。もう少し賢くなってから社会に出ないと、周りの人たちに迷惑をかけることになる」
配慮のかけらもない無礼な発言に、カチンとくる。
「先生って嫌味ですねぇ! どうせ、わたしは童顔ですよーだ! 社会に出るのが早いっていうなら、少しだけ結婚してあげてもいいです。結婚して、三十分で離婚するんです。でもって、財産をください。そのお金で、学校に通いますから!!」
「ノアナ・シュリミア。三十分だけの結婚をすることになんの意味がある? 君は不器用だから、会得するのに時間がかかるタイプだ。三十分ぐらいでは私の妻という職業を極められない。せめて三年は必要だ」
「さ、ささ、三年もっ⁉︎ 無理! 死んじゃう!!」
「毒入りの食事を食べるわけではないのだから、死にはしない」
「精神的には死んじゃいます! ……っていうか、先生はわたしと結婚したいんですか?」
「…………」
ユガリノス先生は常に不機嫌な顔をしている。声には抑揚がなく、薄い唇は微笑むことを知らない。ぶ厚い黒縁眼鏡の奥にある目は、モジャ前髪で見えにくい。
根暗でダサいと、女性に敬遠されるタイプだ。間違いなく、モテないだろう。おまけに先生は、人嫌いオーラを放っている。学校で他の先生と話しているのを見たことがない。
女性に相手にされず、職場の人間関係も築けない先生が結婚だなんて、違和感しかない。
それに、わたしはユガリノス先生が大嫌いだけれど、先生だってわたしを嫌いだと思うのだ。勉強嫌いの落ちこぼれ生徒と結婚だなんて、堅物で人間嫌いな先生にとっても避けたいはず。
「結婚じゃなくて、別な方法を考えましょう。お金を出してくれれば、それでいいし。今まで通り、他人として過ごしましょうよ」
先生の唇が動いた。「やだな……」
噴水から勢いよく水が吹き出す。先生の低音ボイスが、激しい水音にかき消されてしまった。
「なんて言ったんですか?」
「……」
「なに?」
三分後。高い弧を描いていた噴水が再び緩やかな曲線に戻り、激しかった水音は、おしゃべりを妨げない程度の涼やかな水音になった。
「もう一回言ってください」
「結婚したいわけではないが、天職検査でそう出たのだから仕方がない。そう言った」
「そんなに長い言葉でした? わたしの聞き間違いじゃなかったら、やだな。って聞こえたんですけれど……」
——今まで通り、他人として過ごしましょうよ。
——やだな。
……まさかね。人間嫌いで神経質な先生が、わたしとの結婚に前向きだなんてありえない。
ユガリノス先生はベンチから立ち上がると、背中を向け、ズボンの両ポケットに手を入れた。
生徒は制服着用が義務づけられているが、教師は私服だ。
ユガリノス先生は一年中黒い服を着ている。しかも体型に合っていないダボッとした服。モジャモジャ髪も黒だから、毛を刈ってもらえない黒羊みたいだ。
ユガリノス先生は、総じてダサい。
「先生って、絶対にモテないですよね。わたしと結婚するしかないって、諦めている感じですか?」
「ノアナ・シュリミア。今日が誕生日なのだろう? ケーキは買ってあるのか?」
「えっ? あ、えぇと、まだです」
「買いに行こう」
「え? あ、はい……」
先生についていくと、世界大会で優勝したことのある、有名パティシエのケーキ屋さんに連れていかれた。
父が亡くなってから我が家の家計は常に苦しくて、賞味期限間近半額シールの貼ってある安いケーキしか食べたことがない。
ショーケースの中に並んでいるケーキの値段に目玉が飛び出る。
「無理ですっ! 買えないです!!」
「君が買う必要はない。好きなケーキはどれだ?」
「えっ?」
ショーケースの中には、宝石みたいに輝いている美味しそうなケーキがずらりと並んでいて、目移りしてしまう。
一つに決められずにいると、先生は店員に「すべてのケーキを一個ずつ」と注文した。
「先生も食べるんですか?」
「食べない。君の優柔不断に付き合うなど、時間の無駄でしかない。全種類買うから、家で悩むといい」
「全種類って……ええっ!! すごいお金になっちゃいますよ⁉︎ 破産しちゃう!!」
先生は店員が示した金額を一瞥すると、肩をすくめた。
「この値段では、破産の仕様がない。私を破産させたかったら、君はケーキを十兆個食べないといけない」
「十兆個って……」
両指を折ってみるけれど、十兆ってゼロがいくつ付くのかわからない。おそらく、足の指を足さないとゼロが足りない気がする。
「手に持っているハンカチを寄越しなさい」
「これ、先生のハンカチですよね? 洗って、アイロンをかけて返します」
「君がアイロンを使ったら火事になりそうだ」
先生はわたしの手からしわくちゃになってしまったハンカチを取り上げると、ケーキが入った箱を寄越した。
アイロンをかけるなんてめんどうくさいと思っていたので、そのままハンカチを返せるのはありがたい。
「先生。いろいろと、その、ありがとうございます」
「転んでケーキがぐしゃぐしゃになっても、味は変わらない」
「転ぶって決めつけないでください! 感謝して損した!」
ぷぅーと頬を膨らませると、先生は「君は怒ると、タコになるのだな」と唇の片端を上げた。
なんて嫌味なヤツ!!
でも誕生日ケーキを買ってくれるなんて、もしかして、少しは優しい?
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