第43話 ピンチになりたい
「えぇっと……どういう意味?」
手紙を五回読んでみたが、意味がわからない。
どうして離れる決断をしないといけないのだろう? 忘れてほしいって書いてあるけれど、どうやって? 先生のことを忘れるなんてできるわけがない。
「わたしの将来に幸多いことを願っているなら、側にいるべきじゃない? 離れるなんて変だよ。納得できない!」
この手紙はゴミ箱行きだ。くしゃくしゃに丸めてゴミ箱に放り投げる。手紙はゴミ箱にちっとも当たることなく、手前側に落ちた。
「腹が立ってきた。ベルシュと付き合うつもりないのに! パンが好きだからちょうどいいってなに? わたしをバカにしないで! 大好きな人のためなら、喜んで危険に巻き込まれてあげるのに!」
わたしの気持ちを無視して、勝手に離れる決断をした先生に怒りが沸く。
別荘を飛び出すと、自転車にまたがった。空は青いが、太陽にだいぶ西に傾き、森の陰影が濃くなっている。
「先生を見つけてパンチしてやるっ!!」
大声に驚いたらしい鳥が枝から羽ばたき、全力で回る車輪がシャカシャカ鳴る。
十七歳の体力を発揮してペダルを力強く漕ぎ、学校に到着した。しかし学校に先生はいなかった。校内にいる先生に聞いて回ったが、ユガリノス先生がどこにいるか知らないと、みんなして首を横に振った。
不安になってくる。
先生は本気でわたしと離れるつもり? わたしを置いて遠くに行っちゃうの?
不安と寂しさと恐怖で心が押しつぶされそうになる。
ふと、セレブ御用達最高級ブティックのマダム店長が頭に浮かんだ。
「そうだ。先生はユガリノスグループの相談役。先生が会社に現れたら連絡をくれるよう、マダム店長に頼もう。わたしって冴えてる!」
雨ざらしにしているせいでハンドルやチェーンが錆びている自転車に再びまたがる。今日は自転車に乗りすぎだ。けれど、先生を見つけるまで休む気はない。
街へと自転車を走らせる。セレブ御用達最高級ブティックに着いたが、様子がおかしい。店の入り口に四角い紙が貼られている。
『スタッフ研修のため、本日はお休みいたします』
透明なガラス戸に顔を押しつけ、中を覗く。照明がついていない店内は真っ暗で、人影はない。研修はここではない場所で行われているらしい。店の取っ手を引いても押しても、開かない。
「どうしよう……どこに行ったらいいの?」
三日間寝ていたせいで、体力が落ちてしまったらしい。疲労で体が重い。喉がカラカラに乾いているけれど、財布を持ってこなかった。
カフェに入って休憩することができず、店の前に座り込む。両膝を抱え、ぼんやりと街行く人を見る。
太陽は建物に隠れてしまった。空は薄暗く、空気は冷たい。
「先生、どこに行っちゃったの? 会いたい。わたしをひとりにしないで……」
寂しさに恋しさが混じって、涙がジワッと滲む。
大きな買い物袋を持った女性。その女性と手を繋いでいる女の子が、人にぶつかりそうになった。女性は慌てた顔をし、口を動かした。声が聞こえないが、まわりをよく見て歩きなさい。危ないわよ。とでも注意いるのだろう。
「危ない、か……。そういえば、お化け騒動のとき……」
出張で家を空けていた先生。わたしを心配して、緊急時に駆けつける魔法をかけていた。その魔法は、今も有効だろうか?
「試してみる価値はあるよね。えぇと、緊急時って、つまりえーと……ピンチになればいいっていうこと?」
「あれ? もしかして……五組のノアナ・シュリミア?」
目の前に立った人物。見上げると、二年四組の筋肉男子トリコゼーノだった。彼の天職は勇者。
トリコゼーノはそばかす顔に笑顔を乗せた。
「退院したんだ。おめでとう。奇跡の人ノアナ」
「あぁ、勇者様ーっ! ちょうどいいところに来てくれた。お願いがあるんです!」
立ち上がって、トリコゼーノの両手を取る。トリコゼーノは顔を赤らめた。
「お願いってアレだろう? 彼女になりたいって言いたいんだろう。ごめん。俺には彼女がいるから、ノアナの好意には応えられない。だが、サインならしてやってもいい」
「違う。そういうことじゃなくて! わたしを襲ってほしいの!」
「襲うって、そんな過激な付き合い方……。俺たち、まだ十七歳だし……」
「過激だからいいの。むしろ、過激希望! ビンタしたりパンチしたり蹴ったりしてくれない?」
「はあっ? な、なな、なんで⁉︎ 俺は女には手を出さない!」
「いいからいいから。そこは特例ってことで。とにかく、わたしをピンチにさせてほしいの。そしたら、先生助けてーって叫ぶから」
「嫌だよっ、なんでそんなこと! 俺は勇者なんだ。チンピラじゃない!」
真剣に頼んでいるのに、話は平行線。相手は勇者。魔物は襲えても町娘は襲えないらしい。
がっかりして肩を落とす。
「勇者様なら町娘のお願いを聞いてくれると思ったんだけど。勇者様は世界を平和にできても、町娘の心の平和の手助けはできないのかぁ。がっかり。ピンチになりたいのに……」
トリコゼーノの表情が変わる。勇者らしいキリッとした顔になり、眉が凛々しく上がる。
「説明下手なノアナ。つまりこういうことだな。ピンチになりたい。だから襲ってほしいということだな?」
「そういうこと!」
「なぜピンチになりたいんだ?」
「人は複雑な事情を抱えた生き物なのです」
「なるほど。だが俺は勇者だ。町娘を襲うことはできない。しかし、ピンチになる方法は知っている」
「本当⁉︎」
「ああ。ピンチになればいいんだろう?」
「そうそう! でも、生ぬるいピンチじゃダメだよ。究極のピンチ希望。危ない目にあってもわたしは大丈夫だよって、教えてあげたいんだ」
先生はわたしを危険に巻き込むことを恐れている。だったらわたしは、お試し妻の覚悟というものを示さなくてはならない。究極のピンチに陥っても、絶対に笑ってみせる。笑顔が消えないことを証明してみせる!
わたしの覚悟が伝わったのか、トリコゼーノは感心したように腕を組んだ。
「ラスボスに向かうような、いい目をしている。気に入った。よし、協力してやる。命の瀬戸際に立つピンチを提供してやろう。カジノに行くぞ!」
「カジノ? なんで?」
「行けばわかる」
こうしてわたしは人生初、カジノへと足を踏み入れた。
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