第15話 嫌味は健康のバロメーター
わたしは夕食をそれなりにおいしく食べていたのだけれど、先生は五口食べただけでやめてしまった。
先生の顔色がおかしい。蒼白だし、額には脂汗が浮いている。
「どうしたんですか?」
「胃が……」
先生はみぞおちを押さえて自室へと下がってしまった。
わたしは食事を終えると、水の入ったコップを持って、先生の部屋を訪ねた。
ナイトランプが灯された、薄暗い室内。先生はベッドで休んでいた。
「お水を持ってきました。サイドテーブルに置きますね」
「すまない」
「あの……もしかしてなんですけれど……。わたしの料理を食べて胃が痛くなったんですか?」
「君はなんともないのか?」
「はい。鉄の胃袋なんで。泥水を飲んでも、お腹を壊さない自信があります」
「それは羨ましい」
先生はぐったりとしているし、声が弱々しい。
「先生、ごめんなさい。喜んでほしくて夕食を作ったのに、反対に苦しめちゃいました。妻、失格です」
「気にするな。私の胃が強かったら、もう少し食べてあげられたのだが……」
こういうときこそ、ネチネチとした嫌味で責めてほしいのに……。
嫌味は、先生の健康のバロメーターらしい。弱っているせいで嫌味の言えない先生は、まるで強炭酸水から炭酸が抜けてしまったかのよう。
「将来のことを考えて、お料理教室に通ってみます」
「将来?」
「はい。料理が上手になったら、将来の可能性が広がると思うんです。わたしの天職は先生の妻しかないけれど、料理の腕前が上がったら、もしかして天職が増えるかもしれない。素晴らしい天職がほしいんです」
「私の妻……というのは、嫌か?」
「嫌っていうか、好きじゃないし……。大好きな人と結婚したい。両親みたいに仲の良い夫婦になりたいんです」
わたしの両親が、理想の夫婦像。お出かけのキスをして、外を歩くときは自然と手を繋いで、思いやりを忘れない。
大嫌いリストから先生を外したけれど、キスしたり手を繋ぐなんて、考えられない。
「未来って、どうなるかわからないですよね。もしかしたら、友達としか見ていなかった男子が大人の男に成長して、その格好良さに胸がキュンとするかもしれない。なんでもない男友達が恋愛相手に発展したときのために、料理を学んでおくのはいいことだと思うんです。好きな人をつかまえたければ胃袋をつかめって言うでしょう?」
「…………」
「それとも、運命の人にまだ出会っていなかったりして。どっちにしても料理上手になるのはいいことですよね」
暗い声でボソリと口を挟んだ先生。
「運命の人にはもう出会っている……」
「え? そうなんですか? 誰だろう?」
「…………」
「あーぁ、料理が上手になりたい。なんでもできる完璧な妻になりたい。よし。まずは、お料理教室に通うぞ! それからお掃除教室!」
「料理教室に通わなくていい。私が教える。料理だけじゃない。掃除も洗濯も、一通りの家事を私が教える」
「いいんですか?」
「ああ。私は寝る。また明日」
「はい。おやすみなさい」
先生はこれ以上話したくないとばかりに、背中を向けて寝てしまった。
翌朝。
わたしは休みの日は十時まで寝ると決めているのに、先生は六時に起こしにきた。
「ノアナ・シュリミア。主婦は、休みの日でもやることがたくさんあるのだ」
「ええ〜?」
寝ぼけ眼をこすりながら、言われるがままに洗濯機を回す。朝食前の労働なんてしたくないのに、命じられて、仕方なしに廊下のモップ掛けと玄関の掃き掃除をする。
掃除をしている間に洗濯が終わった。庭に干す。
「ノアナ。振りさばきなさい!」
「ええ〜? 振りさばくってなんですかぁ?」
「洗濯物を何度か大きく振って、繊維に風を通すのだ。そうすることによって乾きが早くなるし、シワがつきにくい」
「はあ……」
「適当に干すんじゃない! 洗濯にも極意がある。まずは、風に当たる面積を大きくすること。外側には長いものを、内側には短いものというアーチ干しにすることで、乾きの時間短縮ができる」
ユガリノス先生は口うるさい。神経質すぎて嫌になる。まるで嫁をいびることが快感の姑みたいだ。
洗濯物を干し終え、台所に行こうとすると、廊下に呼びだされた。
「廊下の端に埃が見えるだろう? モップ掛けをしたにも関わらず、埃があるのはなぜだろう?」
「埃が『わ〜い。ここで遊ぼう!』って寄ってきたんじゃないかな」
「メルヘン的解答は求めていない。君は適当にモップを掛けた。廊下の中央をサッと拭いて、端は拭かなかったのだ」
「先生って嫌味ですね。見ていたなら、埃があるのはなぜだろう? なんて聞かないでください」
掃除して体力を消耗したし、嫌味攻撃で精神がすり減った。お腹が空いたけれど、朝食を作る元気がない。
休みたいというわたしに、先生は朝食作りを命じた。
「結婚して子供ができると、具合が悪くても食事の用意をしなくてはならない。その練習だ」
「パンでいいですよね」
「パン以外には何を?」
「パンだけですけど、なにか問題でも?」
「栄養バランスと彩りのことは、どう考えている?」
「なんにも。まったく。全然。ちっとも」
「料理が得意になりたいのなら、味だけではなく、見た目にもこだわらなければならない。赤・黄・緑・白・黒の五色を取り入れること。さらには皿選びのセンスも問われる。シンプルな白皿、または模様のある……」
「もうやだぁー!! 先生なんて大嫌いっ! ネチネチネチネチ、ネチネチネチネチとうるさぁぁぁーーいっ!!」
ついにわたしはキレた。疲労と空腹が怒りを増幅させる。
せっかく大嫌いリストから外してあげたのに!
大嫌いリスト一位は勉強。二位はお化け。三位は早起き。そして四位に、ユガリノス先生が返り咲いた。
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