第16話 お試し夫婦のススメ
「先生なんて、嫌い嫌い、大嫌いっ!! 妻体験実習なんて、もうやめる!!」
「わかった。やめていい」
「へ?」
先生は冷蔵庫からバターと卵とチーズとキャベツ。食品庫からじゃがいもとにんじんと玉ねぎを出しながら、話を続けた。
「この三週間。君の様子を見てきた。家事能力が低いが、それ以上に重大な問題がある」
「なに?」
先生は包丁で器用にじゃがいもの皮を剥いていく。わたしもピューラーでじゃがいもを剥くが、実がどんどん小さくなっていく。剥いた皮がぶ厚い。
「君は昨夜、料理上手な完璧な妻になりたいと言った」
「うん。なんでもできる完璧な妻になりたい!」
「君が料理や掃除を頑張った結果、上手にできるようになったと仮定する。そして好きな人ができて、結婚したとする。待ち構えているのは幸せな結婚生活ではない。ストレスを抱えた人生だ」
「なんでですか! 勝手に決めつけないでください」
わたしがじゃがいも一個を剥き終わらないのに、先生はにんじんを切り終え、今度は玉ねぎの皮を剥いている。先生は手際が良い。
「はい。じゃがいもの皮、剥いたよ」
「大人のじゃがいもが赤ちゃんになったな」
先生は小さくなったじゃがいもを食べやすい大きさに切ると、水にさらした。
先生は今度はキャベツを切り、わたしは指示されるがままに、鍋でバターを炒める。
オーブンからは、パンが焼けるいい匂いが漂っている。
「君は若いから結婚に甘い夢を見ているだろうが、結婚式がゴールではない。その後に続く共同生活こそ、本番。我が国は共働きの比率が高いにもかかわらず、女性が家事を担っている。男だから、女だからという、性別で物事を決めつける風潮は過去のものになったが、それでも、家事は女性がするものだという価値観は根強い」
「まぁ、そうですね」
鍋に、玉ねぎ、にんじん、キャベツ、じゃがいもを加える。わたしはそれらを炒め、先生は卵を割った。
「ノアナ・シュリミア。いいことを教えてあげよう。家事が上手になった結果出会った男性は、間違いなく、君に家事をすることを求める。夫婦ふたりのときはいい。子供ができたら悲劇だ」
「えーっ! どういうこと? 幸せが待っているんじゃないの?」
「子供ができたら男は変わると思わないほうがいい。母親が子供の世話に追われていても、男は『なんで僕を構ってくれないの? 子供ができて変わったね。失望した』と平気な顔をして言える生き物だ。女は三十九度の熱があっても根性で食事を作り子供の世話をするが、男は三七・五度で寝込む。女が今日は具合が悪いから子供の面倒を見てほしいと頼むと、男は『仕事で疲れているから無理。休みの日はゆっくりしたい』と、女性の体調を無視した発言ができる」
淀みなく話しながら、チーズオムレツを作っている先生。わたしは、先生が冷凍保存していた作り置きスープの素を鍋に入れる。
先生が話していることは、近所のおばちゃんたちの愚痴とほぼ同じ内容。否定できない。
「主婦だって、疲れて休みたいときがあるだろう。それでも、家族のために善意で動いてくれている。老後。夫が妻にかける言葉はなんだと思う?」
「わかった! 今までありがとう。感謝している、だよね!」
「正解は『飯は?』だ。死ぬまで、妻は夫の食事を作り続けなければならない」
「あー……」
「さらに最悪なことを教えよう」
「まだ続くの⁉︎」
「女性が子供に意識が向いたり、病気になったとき。男の世話が疎かになってしまうのは致し方のないこと。そうなったとき、激怒したり、浮気をする男が現実に存在する」
「…………」
結婚に憧れる十七歳の純粋な気持ちを、先生はものの見事に打ち砕いてくれる。
わたしは野菜スープをカップによそいながら、唇を尖らせた。
「つまり先生は、結婚するなって言いたんですね!」
「そうは言っていない。君は家事能力がないが、それ以上に大きな問題を抱えている」
「なんですか?」
「君は家事をすることに多大なストレスを感じている。家事に協力的でない男と結婚したら悲惨ではないのかね?」
「それは……でも、わたしが頑張れば……」
「妻体験をしている君は、萎んでいく花のようだ。輝きを失ってまで、向いていないものを頑張る必要はない」
フェイスラインをひと撫でする。春休みに入ってできた吹き出物。ルーチェに「肌が荒れているね」と指摘されたけれど、これはストレス。先生の嫌味攻撃によるものではなく、苦手な家事を頑張っているストレス。
わたしは両手をだらりと下げると、力なく言った。
「だったら、わたしは結婚できないっていうことですか?」
「家事のできる女性を求める男よりも、そのままの君を受け入れ、家事をやってくれる男のほうがいいのではないかという話だ」
「そういう男性います? あ……」
食卓のテーブルに並んだ朝食。チーズオムレツの皿にはブロッコリーとミニトマトが添えてある。野菜たっぷりのスープ。全粒粉パン。
先生は毎朝、手作りパンを出してくれる。それは、ベルシュパン屋に負けないぐらいに美味しい。
わたしは上目遣いに、食卓に着く先生を見る。
(そのままのわたしを受け入れ、家事をやってくれる人って、先生なんじゃ……)
生じた戸惑い。天職が頭にちらつく。
先生はテーブルに肘をつくと、指を組んだ。
「主婦の不満、第一位はなんだと思う?」
「うーん……なんだろう?」
「家事をすることを当たり前に受け取られて、感謝されないことを不満に感じている主婦が多い。家事をしてくれるその善意を当然のものだと思わず、感謝を示し協力することが、夫婦生活の秘訣なのだと、私は思う」
「じゃあ、わたしが家事を頑張ったら感謝を示してくださいね」
「君がいくら頑張ろうとも、家事が得意な私には敵わない。今朝の洗濯干しとモップ掛けで痛感したろう? 君は雑な性格だ。私が家事全般をしたほうが、互いの精神状態に良い」
「先生が家事をしたら、わたしはなにをすればいいの?」
食卓の椅子に座り、先生を真正面から見る。
先生の髪は今日もモジャモジャ。陰気な黒縁眼鏡。暗黒の呪いにかかった全身黒服。先生のダサささには、一ミリのブレもない。
「妻体験実習は終了する。最後までやり切ったものとして書類を提出するから、心配しなくていい。それよりも、天職検査で私の妻と出た。その意味を考えてみないか?」
「あー、確かに。気になります。なんで先生の妻なのか、意味がわからないです」
「十七歳からしたら、十歳も年上の男などおじさんだろう。しかも私は陰気な教師で、嫌味な性格だ。君が私を嫌っているのは至極もっともだと思う。それでも、天職検査で私の妻と出たからには、なにかしらの意味があるはずだ。——ノアナ。お試し結婚をしてみないか?」
「へっ? お試し結婚?」
「私が家事をする。君は食事を美味しく食べて感謝をする。その役割分担で、夫婦としてやっていけるのかのお試し生活だ」
「美味しく食べる⁉ そんな簡単なことでいいの⁉︎」
「簡単? 昼食はピーマン炒めだ。肌荒れしている君にピッタリだ」
「大嫌いランキング第五位がピーマンなんですけど!!」
ニヤッと笑った先生。どうやら嫌味で言ったらしい。わたしがピーマン嫌いだと知っているなんて、侮れない。どこから情報を仕入れたのだろう。
ふと、手元に視線を落とす。
(野菜たっぷりのスープや、全粒粉パンって……。もしかして、わたしの肌荒れを気にして出してくれたかな?)
一日中考えてみた。
青年検査官は「教師の顔と私生活の顔は違うはずだ」と言っていた。妻体験実習は、指導者と実習者という関係がついて回っていた。
お試し夫婦なら、先生の素を知ることができる。
わたしはその日の夜。お試し夫婦になることを了承した。
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