第17話 日曜日の朝は鼻歌と嫌味から始まる

 カーテンをわざと開けっぱなしにして寝たおかげで、陽光が顔に当たり、その眩しさに自然と目を開けた。

 目覚まし時計を見ると、短針が八を指している。


「うわっ、超絶早起き! わたしってば、やればできる子!」


 わたしは別荘の二階にある、一番広いゲストルームを自室にしている。

 窓際にある湖を一望できるベッドから飛び下りると、大きな伸びをした。

 先生はわたしに、「食事を美味しく食べて感謝をする。その役割分担でいい」と言ったけれど、それだけでは足りないと思って、たまに料理の手伝いをしている。それでも、やっぱり足りない。先生にしてもらうことの方が多すぎる。

 だから、わたしは考えた。

 

「今日で春休み最後。先生を街に連れていくぞ。おーっ!」


 先生は引きこもりだ。学校に行く以外、家から出ない。街に誘うと、露骨に嫌がる。理由は「人混みが嫌いだ」

 けれど今日はなにがなんでも、先生を街に連れださなくてはいけない。

 感謝の気持ちを行動で示すために——。

 


「♩ふふんっ。わたしってば、有能なお試し妻〜♫低血圧なのに、早起きできたよ〜♬」

「八時を早起きとは言わない。新学期になったら、最低でも六時半には起きなさい。いや、有能な妻なら、五時に起きられるかもしれないな」


 鼻歌混じりに食堂に下りていくと、先生は視線を本を落としたまま、辛辣な言葉を投げてきた。

 嫌味は先生の健康のバロメーター。


(今朝も嫌味が絶好調ですね。つまり、先生は元気。これなら、街にお出かけできそう)


 元気良く「おはようごじゃいまーーすっ!」と挨拶をすると、先生は一拍遅れて、陰気な顔を上げた。


「その挨拶はなんだ?」

「お天気がいいんだもん。浮かれちゃうよ」

「君は単純でいいな。朝食を作るから、待っていなさい」

「はぁ〜い! 先生の作る朝食って最高に美味しいから、楽しみ。今日はなにを作ってくれるのかな? ワクワク!」


 感謝を示すために、両手を上下に振って体も一緒に揺らすという、ノアナ創作ワクワクダンスを披露する。

 手を叩いて喜んでくれるかと思いきや、モジャ髪男は無反応。そそくさとキッチンに行ってしまった。

 先生は無愛想すぎる。心の温度を測ったら、マイナス二十度だろう。心が凍傷にかかって壊死している可能性がある。

 わたしは有能なお試し妻なので、お試し夫の心の温度を上げるべく、今度は歌を披露する。


「♩美味しい朝食を作ってくれる先生のために〜感謝の歌を歌うよ〜聞いてください♪ラララ、今日は素敵な日曜日♪先生が卵を持っているよ〜なにを作るのかなぁ〜ハムとキノコとバターを冷蔵庫から出したよ〜あれれ、ニンジンもある♩ニンジン苦手だよ〜細かく切ってもムリぃーわたしの舌センサーは誤魔化せないよ〜♫ そうそう、街に行きたいな〜でも、ひとりは寂しいよ〜誰か一緒に行ってくれないかなぁ〜たとえば、目の前にいる人〜ユから始まる名前の人〜♬」

「ノアナ。うるさ……じゃなかった。庭からパセリを取ってきてくれ」

「はぁーい」


 歌の途中だけれど、お手伝いを頼まれたので、裏口から庭に出る。

 春の日差しを浴びた風が肌に心地良い。


 庭の片隅に、小さな畑ができた。暇を持て余したお試し妻が、野菜を作りたいと気まぐれにポロリとこぼしたところ、お試し夫が畑を用意してくれたのだ。

 畑には看板が立っている。

 最初、わたしが看板を作った。『ノアナのうえん』と書いた三角形の画用紙を、木の棒にガムテープで張りつけた。でもその日の夜に降った雨で、画用紙がボロボロになってしまった。

 先生は言った。


「雨を見たことのない生まれたての赤ちゃんじゃないんだから、看板を画用紙で作るな」


 先生は木板を適切な大きさに切ると、ニスを塗り、赤いペンキで『ノアナ農園』と書いてくれた。

 魔法を使わないのか聞いたわたしに先生は「魔法は好きじゃない。できれば使いたくない」となにかを含んだような声で言った。そのなにかがわたしには、苦しみのように感じた。

 お試し夫婦になったのだから、踏み込んでもいいのでは? と、魔法を使いたくない理由を尋ねた。先生は、深い吐息とともに頭を左右に振った。語りたくない、と沈黙が訴えていた。だから、それ以上は聞かなかった。

 

「なんで魔法が好きじゃないんだろう? 便利なのに……」


 パセリを摘み、青くさいにおいを鼻いっぱいに吸い込む。

 パセリのにおいが、記憶を引き出す。


 

 母はプランターでパセリを育てていた。

 その母が亡くなる三日前。不安と心細さと恐怖で泣いているわたしに、母は頬のこけた土気色の顔でうっすらと微笑んだ。


「ノアナはひとりじゃない。○○○○○様が守ってくれる……」


 細い母の声をかき消すように、玄関の向こうでラテルナお婆ちゃんが、オリーブオイルを貸してくれ! と濁声で叫んだ。

 ラテルナお婆ちゃんはオリーブオイルをエプロンのポケットに入れると、パセリのプランターを抱えて持って帰ってしまった。ラテルナお婆ちゃんは、なんでも欲しがる。



「あのときは、誰? って思ったけれど……。お母さんは、ジュリサス様って言ったような……」


 —— ノアナはひとりじゃない。ジュリサス様が守ってくれる……。


 別荘の二階を見上げる。ユガリノス先生は、ジュリサス様は死んだと話した。

 母が亡くなったのは、五ヶ月前。ジュリサス様はいつ亡くなったのだろう。五ヶ月前は生きていた?



「ねぇ、先生。ジュリサス様のことが知りたいんだけど……」

 

 キッチンに戻ると、朝食が出来上がっていた。先生は手際がいい。

 

「わあーっ、なんて豪華な朝食! 素敵っ! 一流ホテルの朝食みたい。ハムエッグときのこソテーとロールパンとポタージュといちご。こんな完璧な朝食、見たことがない! 先生ってば、天才!!」

「感謝を示すよう言ったが、おだてろとは言っていない」

「恥ずかしがっちゃって。本当は喜んでいるんでしょう?」

「全然。まったく。ちっとも」

「ぼふー!」

「頭でも爆発したのか?」

「違います!」


 先生はハムエッグの乗ったプレートをテーブルに運んだ。わたしもポタージュの入ったカップを運ぶお手伝いをする。


「前々から気になっているのだが、君はたまに、ぼふーとか、むふーとか、ふみゃあとか、意味不明な単語を発する。意味のある単語なのか?」 

「ぼふー。むふー。ふみゃあ。は、ノアナ語です。先生の発言によって気分を損ねたという意味です」

「なるほど。頭の悪そうな意味不明の単語は、ノアナ語だったのか」

「ピキキ……頭が悪そうな?」


 今朝も先生の舌は絶好調。嫌味をさらっと投入してくる。

 無視したいところだが、わたしは有能なお試し妻なので、会話に付き合ってあげる。


「先生はお試し夫ですから、ノアナ語を使ってもいいですよ。三つのうち、どれを使ってみたい?」

「どれもダサいな」

「ふえっ? ダサい? じゃあ、むふーとか、ぼふーとか、ふにゃあって言っているわたしって……」

「ダサいということになる」

「むきーっ! ダサい男にダサいって言われた! 怒ったぞ! 先生のパンをもらっちゃう!」

「どうぞ。私は朝はカフェオレだけでいい。君のために朝食を作っているに過ぎない」

「え……」


 食欲旺盛なわたしのために、毎朝作ってくれているの?

 先生は嫌味だし、意地悪。なのに、優しいところもある。

 

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