第33話 デタラメな噂

 一時間目と二時間目を保健室のベッドで過ごした。熟睡したら、体も心もすっきりして軽くなった。

 わたしは根が明るくて単純なのだ。元気がわたしの持ち味!


「先生に嫌がらせしちゃうぞ! 夕食に、地獄の闇スープを作ってあげるんだから!」 


 妻が他の男にプロポーズされたのに、知らんぷりをした罪は重い。

 闇スープに入れるものをあれこれ考えながら教室に戻ると、すぐにルキーマが駆け寄ってきた。


「愛しいノアナ。体調はどう?」

「あ……」

「僕に頼っていいからね。困ったことがあったら、すぐに僕に相談して。未来の妻の力になりたいんだ」


 彼の榛色の瞳には不思議な力があるのかもしれない。目が合った途端、吸い込まれそうになって、咄嗟に机に手をついた。

 うつむいたわたしの顔を、ルキーマが覗き込む。彼の瞳はやさしく、表情は穏やかで、声は気遣いにあふれている。


「今日会ったばかりの男なんて信用ならないと思っている? でも、占いでノアナが花嫁だと知ったのは三ヶ月前。それからずっと会いたくてたまらなかった。どうにか父の許しを得て、リクシア国に来ることができた。ノアナにとっては初対面の知らない男でも、僕にとっては愛すべき運命の花嫁なんだ」

「でも……」

「僕じゃ頼りない? 悩みを分かち合えない?」

「別に悩みなんて……」

「顔色が悪いからてっきり、悩みがあるのかと思った。ないならいいんだ。でも、知っていてほしい。僕はノアナを受け入れる準備ができている。困ったことや悩みがあったら、僕を頼ってほしい。僕はノアナの未来の夫だし、すでにノアナを愛し始めている。君はとても愛らしい」


 クラスメートたちは聞き耳を立てていたらしい。黄色い悲鳴があがる。


「きゃあーーっ! ノアナが羨ましすぎる!!」

「アタシも言われたーい!!」

「皇子、すげーな。ノアナのこと、本気で好きなんだな」

「お似合いのふたりよね。みんなで応援してあげようよ!」


 クラスメートたちの目にはわたしは、砂漠の国の第七皇子に見初められた幸運な女の子に映っているのだろう。ロマンティックな運命によって出会ったふたり。ロマンスあふれる恋模様。

 だけどわたしは皇子のプロポーズを受け入れていないし、ダイヤモンドも受け取っていない。喜んだ素振りを一切していないし、笑ってもいない。

 終始困った顔をしているはずなのに、ルキーマにもクラスメートたちにも伝わっていない。


(どうしよう。ちゃんと言わなくちゃ! プロポーズを断らなくちゃ!)


 曖昧な態度をとっているからいけないのだ。

 結婚できないし、お付き合いもできない。そう、キッパリと言おう。

 なのに……どうしてか言葉が出てこない。リボン紐で喉を締めつけられているかのように、言葉が口に上がってこない。

 呼吸がゆるやかに奪われていっているかのように、頭がぼうっとする。


(変だな。保健室を出たときは元気だったのに……)


 ルキーマは褐色の濃い顔に、親しげな笑みを浮かべた。


「サウリ国では、人前でキスはしません。その代わり、というわけではないのですが、男性が女性に愛を示す行為があります」


 ルキーマはそう言うと、わたしの髪を一房すくいあげ、その髪に口づけを落とした。


「きゃあーー!! ノアナ、愛されすぎーー!!」

「今すぐに結婚しちゃえよ!」

「おめでとう、ノアナ!!」

「結婚式にはみんなで行くからね!」


 クラスメートたちが祝福の歓声をあげて拍手をしている。けれどわたしは、恐怖が背筋を流れた。

 教室の前方に——ユガリノス先生が立っていた。

 その顔はいつもの不機嫌顔ではなかった。表情が抜け落ちていて、なにを考えているのか読めない、無の表情。


「三時間目開始のチャイムはとっくに鳴っている。授業を始めてもいいだろうか」

「ユガリノス先生。すみません」


 ルキーマは詫びると、自分の席に戻っていった。クラスメートたちは慌てて椅子に座り直し、姿勢を正した。

 平素と変わることなく、数学の授業が淡々と進められていく。


(ルキーマがわたしの髪に口づけしたのを見たよね? どうしてなにも言わないの?)


 お得意の嫌味を言ってくれない。だけど、それだけじゃない。先生はわたしを見てくれない。

 数学の授業中、わたしは一心不乱に先生を見つめ続けた。なのに先生の視線は、わたしを素通りしていく。

 心臓が嫌な音を立てる。血の気が引いたままの冷たい指先が、震える。


 春休みに妻体験をしたおかげで、先生との距離が縮まった。わたしは先生のことを大嫌いと思わなくなったし、先生もわたしを特別扱いしてくれた。

 もしかして、先生、わたしのこと好き? そう思ったことが何度かある。けれどもう、わからなくなってしまった。

 先生の気持ちが、全然わからない——。


 

 昼休み。昼食を食べずに、職員室を訪ねた。ユガリノス先生はいなかった。


「どこに行っちゃったのかな?」

 

 朝食はレーズンパンとウインナー一個。お腹がぐうぐう鳴るけれど、先生と話すほうが大切だ。

 学校中を探し回ったけれど、先生の姿はない。見つからない。


「外に行ったのかな?」


 昇降口で靴を履き替えていると、ベルシュが赤ら顔で走ってきた。


「いたいたっ!! すっげー探した。砂漠の国の皇子からプロポーズされたって本当なのか⁉︎」

「うん……」


 ベルシュは興奮していて、早口だ。


「なんでプロポーズを受けたんだよ! 今日会ったばかりなのに!!」

「えぇ? なにそれ?」

「ノアナはプロポーズを喜んで承諾したって、学校中の噂になっている。来週にでもサウリ国に行って、向こうの両親に結婚の挨拶をするんだろう?」

「なにそれぇーー! そんなデタラメなこと誰が言ったの⁉︎ ルキーマ?」

「いや、五組の連中がみんなしてそう言っているけど……」


 目の前が真っ暗になった。足元がぐら浮いて、体が宙に浮いてしまったかのよう。わけがわからない。

 現実に戻してくれたのは、ベルシュの次の言葉だった。


「ルーチェだけは、ノアナはプロポーズを承諾していないし、喜んでもいないって言っていたけど……」

「ルーチェだけ?」

「うん。あとはみんな、ノアナと皇子は結婚するって騒いでいるけど……」


 絶句するわたしに、ベルシュは「そういえば……」と、顎に手をやった。


「ルーチェが、どす黒い闇を皇子に感じるって言っていた……」


 わたしとルーチェは、いつも教室でお弁当を食べる。なのに初めて、屋上で食べようと誘われた。けれど先生と話したくて、断った。そのときのルーチェの複雑そうな表情。「じゃあ、放課後ね」ルーチェはそう言って、手を振って見送ってくれた。

 ルーチェの天職は、癒しの聖女とクレーマー処理係。

 ルーチェが厄介なクレーマーと話しても闇に引きずられることがないのは、癒しの聖女の才能があるから。

 ルーチェは、誰にも、なににも、染まらない。自分の心を平静に保っていられる。


 来週にサウリ国に行って結婚の挨拶をすると、ありもしない噂を流したクラスメートたち。

 ルキーマに闇を感じているルーチェ。

 なにも言わずに傍観している先生。

 そしてなぜか、ルキーマを拒絶する言葉が出てこないわたし。


 ルキーマはただの転入生じゃない。そんな気がする。

 


 

 



 


 

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