第4話 翠柘榴石
「あ、ねぇ、レガロさんの搬入時間、今週は早めに変更って誰か言ってなかった!?」
先輩社員のリコが、フロアを見回して声を上げた。
受注センターは午前中がとにかく忙しい。
締め切り時間までに各倉庫に出荷指示を出さなくては、納品時間に間に合わなくなるからだ。
取引先によっては、トラックの搬入時間を細かく指定されることもあり、ホテルレガロマーレがまさにそれだった。
聞こえて来た名前に、途端胃が痛くなる。
「あー言ってましたぁ!ええっと・・・ホワイトボードにも・・・」
来月挙式披露宴を控えている幸せいっぱいの後輩の金森が立ち上がって、壁際に設置されているホワイトボードを確かめに行く。
連絡メールは転送して、都度センター全員で共有しているのだが、取引先が多いのでメール自体が埋もれてしまうこともある。
毎朝朝礼で周知される伝達事項はかなり多いので、昨日の事まで頭が回らない。
それでも習い性で考える前に分類フォルダからレガロマーレから届いた依頼メールを呼び出していた。
「午後便は14時半!明日の早朝入庫は6時だから、備考欄に記入忘れないでねー!昨日のうちに、出荷チームにも連携してるけど、多分あっちが忘れてる!」
出荷チームはシフト制なので、出荷以来のたびに必要事項は連絡しておかなくてはならないのだ。
「ですよねー。あ、ホワイトボードにも書いてありまーす」
「金森ちゃん、悪いけどレガロさんの伝達事項の周りカラーペンで分かりやすくかこっといて。事故るとマジで困る」
「了解でーす」
大口取引先の一つであるレガロマーレとは20年近くの付き合いで、西園寺グループにも顔が利く上顧客でもあるので、機嫌を損ねると怖いのだ。
入社したての頃、別の取引先の注文で、冷凍商品の搬入時間を誤って指示してしまい、冷凍倉庫への入庫が出来ずに、特大クレームを食らった苦い記憶が甦って来た。
センター長と二人、四国まで飛んで頭を下げたあの日の夕焼けは一生忘れない。
「週半ばだけどいつもより注文多いわねぇ」
出産後、時短勤務を続けているリコの声に、同じく時短勤務の兼業主婦たちがこくこく頷いた。
いつもは月曜日の朝に注文が集中するのだが、たまに週末まで繁忙状態が続くことがある。
早上がりの先輩社員たちが残ってくれている時間帯で助かった。
西園寺グループは、福利厚生が手厚い事で知られており、正社員で入社した女子社員は大抵寿で退職する事なく、出産育休を経て、職場復帰している。
現在受注センターで働いている社員の7割が既婚者子持ちの女子社員で、大半が子育てに追われており、時短勤務を行っていた。
残る3割の中の最年長である楓が、受注センターのまとめ役を任されるのは当然のことで、後輩を育てつつ、上手く時短勤務の先輩たちの顔色を伺いながら自分の立場と給料を維持している。
このまま上手く行けば65歳定年まで働けるだろうし、今更結婚なんて欲を出すんじゃなかった。
あの日、タクシーに飛び乗って真っ直ぐ自宅に戻って汗と涙と化粧を大急ぎでバスルームで洗い流した。
今日のこれは夢だったと思うことにしよう、悪夢だ悪夢。
そう決めたのに。
「あれ?楓さん、お腹痛いです?」
「え!?」
「さっきからずっと胃を押さえてますよね?大丈夫ですか?」
心配顔になった金森の指摘に、慌てて自分の格好を確かめれば、確かに左手で胃を押さえていた。
全く無意識だった。
この胃の痛みが、あの日のお見合いが夢では無かったことを如実に示している。
ああ、早く忘れたい。
「あはは・・・・・・ちょ、ちょっと朝ご飯食べ過ぎかなぁ」
「食べ過ぎって・・・・・・今朝はコーヒーしか持ってきてなかったですよね?」
金森の指摘に思わず渋面を作る。
受注センターには日替わりで早当番があり、みんなが出勤するまでに受注センターに届いているFAXと注文依頼を担当ごとに仕訳しておく仕事があった。
今日の当番は金森と楓だったのだが、食欲が無かった楓はコーヒーだけ持って出勤していたのだ。
挙動不審な楓に気づいた先輩社員たちが、キーボードを叩く手を止めることなく尋ねてくる。
「どしたー?楓ぇ、なんかあった?」
「そういえば、あんた週末お見合いって言ってなかったっけ?」
「そういや三度目の正直の結果聞いてないわね。あんたちゃんとその自慢の胸が綺麗に見える洋服着て行ったわけ?」
酸いも甘いも乗り越えて幸せな家庭を築いた先輩方の鋭い眼光から逃れるべく背中を丸めて液晶画面に隠れた。
入社当初から面倒を見て貰った先輩ばかりなので、彼女たちにはどうにも頭が上がらないのだ。
「あははははー胸は自慢じゃありませんからねー。重たくて邪魔ですからねー。んで、先輩方ぁ、そろそろ午前の締め時間近いのでー巻きでお願いしまーっす!」
使い道のないFカップは満員電車で嫌な思いしかしない。
だから胸を強調するデザインの洋服は絶対に着ないようにしているのだ。
だかだかと乱暴にキーボードを叩く楓を一瞥して、先輩社員たちが揃って頷いた。
「あー、こりゃ駄目だったんだわ」
「金森ぃ、あんた二次会で楓に新郎の会社の先輩とか紹介させなさいよ」
「はーい!訊いときます」
「いや待って!まだ返事来てないから!!」
母親からのメールは見ていないし、向こうからの連絡はなし。
当然と言えば当然だ。
彼は、お見合い場所から逃げ出した相手と結婚を考える愚か者ではない。
「あら、なんだそうなの?」
「んで、勝算は?」
「・・・・・・・・・いや・・・・・・えっと・・・それは・・・」
が、どのみちお断りされることは目に見えている。
しどろもどろの返事を返した楓に溜息を吐いた先輩社員が、改めて金森を呼んだ。
「金森ぃ!本気で頼むわね」
「はーい!了解しましたぁ!」
そして、挙式披露宴の日、運命の歯車は回り始めた。
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