第13話 黒曜石-1
デートスポットでお馴染みの港町に勤めてはいるものの、休日出勤以外の目的でこの辺りに来ることなんてないし、仕事帰りに受注センターの後輩達と飲みに行く時は、山の手の大衆居酒屋が基本。
雰囲気やら演出重視のおしゃれなお店でお酒と食事を楽しむのは、友人や後輩のお祝いパーティーの時のみ。
これまで何とも枯れ果てた、砂漠のようなプライベートを生きて来た楓は、終業時間のカウントダウンなんてしたことがなかった。
何なら、時短勤務の先輩の残した仕事を捌きつつ、本日デートで落ち着かない様子の後輩の仕事も巻き取って、締め時間以降に届いた受注依頼を早めに処理したりして、家族へのお土産を買いに駅に向かうセンター長を見送って、喜んで最後の戸締りを引き受けて来た。
ところが今日はどうだろう。
1時間ほど時間休を取得して、昼休みを延長して駅ビルに駆け込み、オフィスカジュアル一辺倒の格好にメスを入れて、初めて店員にコーディネートをお願いした。
アイメイクをすると別人のように派手になるのが苦手で、ハレの日以外は控えめに徹してきたカラーレスメイクを卒業して、今期の人気カラーパレットに手を出して、アイラインもさぼらず引いた。
レガロマーレは帝都ホテルのような超格式高いホテルというわけではないが、当然高級ホテルなわけで、そこに勤めている智寿も、表に出る仕事では無いが毎日スーツで出勤している。
そんな彼と一緒に食事を摂るのだから、それなりの見た目をしていなくてはならない。
仮にも楓は、加賀谷智寿の婚約者なのだから。
まさかもう一度プロポーズして貰えるとは思わずに、地味スーツでのこのこホテルまで出向いたあの日の自分をタコ殴りにしてやりたい。
いや、もっと言うならば、最初のお見合いの日からやり直したいくらいだ。
幸い海岸通りには、こぢんまりとした大人の雰囲気のお店が多く合って、山の手の繁華街とは一線を画した雰囲気だ。
隠れ家的なレストランやバーもいくつもあるらしいが、残念ながら行く機会に恵まれたことはなかった。
いつものように後輩たちを見送って、センター長にお先に失礼します、と挨拶をして、それからトイレを占領して化粧直しに取り掛かった。
地味スーツを脱ぎ捨てて、買ったばかりのセットアップに着替えて、余所行きの自分をどうにか作って、受注センターから出ると、敷地の門の前で佇む長身を見つけた。
待ち合わせは市立博物館の前だったはずなのに。
「っ、か、加賀谷さんっ」
待たせてしまったのかと慌てて名前を呼べば。
「楓さん、お疲れ様」
こちらを見つめる彼が鋭い目元を和ませて名前を呼んでくれた。
「あ・・・・・・お、お疲れ様です・・・すみません・・・お待たせして!」
危ない、名前を呼ばれた事にお礼を言ってしまうところだった。
お見合いから婚約までの流れが怒涛過ぎたので、ファン心理はそう簡単に抜けてはくれない。
小走りで駆け寄って来た楓を見下ろして、智寿が頬を緩める。
紙面では一度も見たことの無かった彼の顔をこの数日でどれくらい独り占めして来ただろう。
調子に乗らないと誓うから、運命の神様、どうか大どんでん返しは勘弁してください。
「いや、俺のほうが予定より早く仕事を抜けれただけ。婚約者とデートだって言ったから、同僚に気を遣われたらしい」
「えっあ、そ、それはあの・・・・・・申し訳ないです」
ああそうだ、自分は婚約者なのだ。
字面では理解できているものの、彼の口から告げられるその言葉は、重たくて大きくてとんでもなく尊い。
本当に私なんかで良いのだろうか。
「お洒落して来てくれたのに、申し訳ないの?」
前回のスーツとの装いの違いに気づいてもらえて嬉しい、が、元モデルを前にすると死ぬほど恥ずかしい。
「あ、いえ・・・・・・ありがたいです!・・・あの、わざわざこっちまで来て頂いてすみません・・・」
智寿が働くレガロマーレと、楓の働く受注センターのちょうど中間地点に、市立博物館は存在する。
今日は、博物館の隣のビルに入っているアジアンレストランで食事をする予定だ。
「どうせ1本通りを歩くだけだし・・・・・・職場が近いとなんかあった時便利だよな」
「は、はい、そうですね」
「楓さん、まだ緊張してる?」
智寿はというと、プロポーズ以降口調も崩して、親しみやすい空気を作ってくれているのだが、楓はというと、なかなかうまく順応できずにいた。
だってしょうがないだろう。
つい先日まで紙の上でしか見たことの無かった元推しといきなり結婚することになったのだから。
「は、はい・・・・・・」
「今日は、この間みたいなフレンチじゃないから、カジュアルレストランだし、硬くならなくていいよ」
「・・・・・・そうなれるように頑張ります」
いま返せる精一杯がこの一言だ。
「緊張しないように頑張るって・・・無理じゃないか?」
淡く微笑んだ彼が、おもむろに指を捕まえにやって来るから、途端心臓が暴れ始めて、それ以降の会話が完全に成立しなくなってしまった。
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