第43話 青玉-1
”帰れるかどうか分からないから、戸締りちゃんとして、スマホの充電も忘れるなよ”
仕事場に詰めている智寿からメッセージが届いたのは、ちょうど帰宅した直後のことだった。
久しぶりの大型台風の直撃で、倉庫は一斉に入出荷をストップさせて、受注センターも早仕舞い。
子供のお迎えがあるママさんグループを一番に見送って、残りのメンバーで念の為窓の近くの荷物を移動させて、段ボールを重ねて即席二重窓を拵えて、床上浸水の可能性も視野に入れて床の荷物を机の上に持ち上げて、何だか年末の大掃除みたいですね、なんて同僚たちと笑い合いながら、間引き運転が始まる直前の電車に飛び乗った。
翌日の自宅待機通達は朝一番で届いていたので、帰ってからまる一日フリータイムである。
こんな悪天候でなければ、新居に持ち込んだ荷物の整理をしたり、凝った料理に挑戦してみたいが、残念ながらどちらも無理そうだ。
停電になるかもしれないので、すぐにお風呂に入って寝支度を整えて、冷凍庫の作り置きおかずで手早く夕飯を食べて、と巻きに巻いたスケジュールを頭に思い浮かべていた最中の連絡は、予想していた通りのものだったので、さほどショックではなかった。
当然こんな悪天候でもホテルに宿泊客はやって来るので、彼らの安全確保が第一優先になる。
万一に備えてこっちで待機することになったという智寿の報告は、彼の立場を考えれば当然のことだ。
お任せください、しっかり戸締りをして、新居を守ってみせます、と手早く返信を打てば。
”家はどうでもいいから、自分のことしっかり守って”
と返って来て、途端頬がへにゃりと緩んだ。
推しを全力で心配して気遣うことはあれど、推しから心配される現実なんてそうそう訪れることはない。
それも、みんな、ではなくて、楓一人に向けて、だ。
この特別感と優越感をどう表現していいのか分からない。
マンションの高層階は、天気が良い日でも強い風が吹き込むことがあるので、台風が直撃となると、たしかに多少おっかなくはある。
が、彼の一言で俄然やる気になった。
お守り代わりに、新居に持ち込んだ棺桶ボックス(一緒に荼毘に伏して貰う予定の愛用品入れ)の中から、寿単独表紙のPrideBeを持ち出して、先日の限定復刊の写真データをタブレットに表示させる。
智寿がレースのカーテン越しに楓にキスを落としたカップル写真は、プロの手によっていい具合に加工されて、楓の顔は全く見えなくなっていた。
そうするように、智寿が何度も念押ししていたという報告をショウから受けたときにはキュンとなったものだが、実際一般人の楓が顔をさらすわけにはいかないので、これで良かったのだ。
何百枚の写真の中から、選りすぐりにレタッチをして電子限定復刊版として発売されたPrideBeの売り上げは予想を上回ったらしく、お世話になった編集長へのいい餞になったと、智寿は嬉しそうだった。
けれど、楓はそれ以上に大量に送られてきた写真データのほうに胸をときめかせた。
あらゆる角度で映し出される現在の智寿の魅力的なカットは、一晩でも二晩でも眺めていられる。
本当に、残りの人生の一度きりの奇跡を彼との結婚で使い果たしてしまったに違いない。
勿論、後悔なんてしないけれど。
シャワーで入浴を済ませて、ドライヤーもそこそこにリビングに舞い戻る。
智寿が居たら、風邪を引くと顔を顰めたところだが、今日は一人なのでまあこれくらいの横着は許されるだろう。
ローテーブルの上に置いたPrideBeの表紙と、先日の智寿の写真を見比べて、ああやっぱり顎のラインは今のほうが男らしいな、とか、目線は昔のほうがちょっと甘いな、とか一人で勝手に鑑賞会を初めているうちに、どんどん窓の外の景色が険しくなってきた。
残り物の冷凍おかずで空腹を満たして、大きくなっていく雨風の音を紛らわそうと映画を流して冷蔵庫のストロング缶に手を伸ばす。
多少雨風が五月蠅くても、眠ってしまえば分からない。
あれっきり智寿からのメッセージは来ていないので、彼のほうも台風の対応に追われているのだろう。
念の為窓の鍵をもう一度確認して、しっかりカーテンを閉める。
よし、とひとつ頷いたところで、一瞬天井の明かりが点滅した。
「え!?」
まさか本当に停電になるのだろうか。
雨風が強くなるのは明け方にかけてと予報が出ていたはずなのに。
電気が落ちてしまったら、冷凍庫と冷蔵庫の中身はアウトだ。
カップ麺はあるけれど、オール電化の家なので、電気が無くてはお湯も沸かせない。
カセットコンロなんて無かったはずだ。
食パンとスナック菓子はあるから、食べるものはある。
ウォーターサーバーがあるから水も大丈夫。
大丈夫、一人でも大丈夫だ。
自分を落ち着かせるように深呼吸して、ニュース画面に切り替えると台風の進路状況が映し出されていた。
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