第42話 苦土橄欖石-2

「俺のほうから連絡を入れますので、お掛けになってお待ちいただけますか?セキュリティールームは、部外者を入れられないんですよ。すみません」


「・・・・・・そうですよね・・・ほんとに考えなしでした。すみません。あの、これ智寿さんに届けていただくことはできますか?もし、難しければ、清匡さんのほうで処分して頂ければ」


「楓さん。そんなことしたら、俺が智寿に殺されますよ。すぐ戻りますので、帰らずにお待ちくださいね」


楓が8割方帰る気満々になっていることを悟ったらしい清匡が念を押して、フロントの奥へと戻っていく。


せめて智寿にお弁当の差し入れをしても良いか確認しておけばよかった。


普通の会社だったらこんにちはーで済むところが、彼の場合は勝手が違うのだ。


重箱の入った大きな紙袋を抱えて、ロビーの片隅で座っていると、つくづく自分はこのラグジュアリーな雰囲気にそぐわない人間だと思い知らされる。


料理を作ることに夢中になって、仕事帰りの格好そのままで出てきてしまった。


メイクも直していないし、足元はスニーカーだ。


せめてリップ位塗り直せばよかった。


ここは、加賀谷の人間が多く出入りする場所なのだから、いつどこで誰に会っても恥ずかしくない格好でいなくてはならないのに。


唇を嚙み締めて、うつむいたままで待つこと数分。


目の前で誰かの影が立ち止まった。


「楓」


聞こえて来た声に、びくんと肩を震わせて先に口を開く。


「っ・・・・・・す、すみませんでした」


「なにが?っていうか、ここまでどうやって来たんだ?電車?」


目の前に膝をついた智寿が、視線を合わせてくる。


楓が逃げるように逸らすことのほうが多いから、彼はいつもこうやって視線を追いかけるべく屈むか、しゃがみ込むことが多い。


「え、電車ですけど・・・定期あるし」


「帰りはタクシーで帰って。もう外真っ暗だぞ。来るならそう言ってくれればいいのに」


「あの・・・・・・ごめんなさい・・・」


「怒ってるわけじゃない。差し入れ持って来てくれたんだろ?清匡が羨ましがってたよ。セキュリティールームには入れられないけど、ちょうどメインメンバーが揃ってるから、挨拶させる」


持つよ、と言って紙袋を持ち上げた智寿あまりの重さに目を剥いた。


「こんな大荷物なら最初からタクシーで来いよ」


来なくていいと言われなかったことにホッとして、次からはそうしますと答える。


「何を詰めてくれたの?最近一緒に夕飯摂れなくて悪いな」


ロビー奥の従業員用通路を抜けて、地下に下りながら智寿がしばらくは夜勤が増えそうだと付け加えた。


二人寝に少しだけ慣れてきたところだったので、寂しい気もするけれど、まだまだ彼の腕に飛び込む勇気は無いので、ひとまず智寿がいないうちに、夫婦のベッドに慣れておく事にする。


「智寿さんの好きなおかずが分からなくて、唐揚げ、厚焼き玉子、ほうれん草のナムル、キャロットラペ、きんぴらごぼう、ちくわの磯部揚げ、アスパラの肉巻き・・・王道のおかずを一通り」


「どれも好きだよ。楓の作るもので苦手なもんはないよ」


「ありがとうございます!」


結婚してから、丸一日一緒に過ごせた日は数えるほどしかないけれど、それくらいの距離感が、楓にとってはちょうどよかった。


なんせ、まだ半分夢の中にいるような気がしているのだ。


自分が作った朝食を食べる彼を見ているだけで胸がいっぱいになってしまう。


誌面でしか見たことの無かった彼は、やっぱり箸使いも綺麗で姿勢もいい。


食事の作法は当然ながら完璧で、育ちの良さをひしひしと感じて、自分を顧みて反省するばかりだ。


本当に、どうして彼は自分なんかと結婚してくれたんだろう。


「ありがたいんだけど、なんでいきなり弁当の差し入れなんだ?楓も仕事終わりで疲れてるだろ?」


結婚してから一度もお弁当作りましょうか?と言った事は無かったし、言われた事もなかった。


「急に、奥さんらしいことしたいなと・・・思い立ちまして・・・いきなりすぎましたよね・・・」


「・・・・・・嬉しいよ。やっと奥さんらしいことしようと思ったんだ?」


茶化すような彼の声に、申し訳ございませんと頭を下げそうになる。


「思った途端、反省しましたけど・・・」


「なんで?」


「もうちょっとちゃんとした格好で来るべきだったなって・・・さっき清匡さんにお会いして恥ずかしくなりました。せめてパンプス履いてきたらよかった」


「俺の仕事場を尋ねるのに、ドレスコードは必要ないぞ」


「でも、やっぱり智寿さんのお、奥さんだから、ちゃんとしたくて」


胸を張ることは出来なくても、顔は上げていたい、と言ったら呆れられてしまうだろうか。


挑む気持ちで答えた楓を振り返った智寿が、そっと腕を伸ばしてくる。


「うん、まあ、その心意気は認める」


両の目を覗き込んだ彼が、すうっと目を細めた。


瞼を下ろす暇もなく唇が重なる。


「俺は、こういう奥さんらしいことも期待してる」


智寿は強引に楓をベッドに組み敷くことはしないが、楓が身を寄せれば腕の中に抱え込んでそのまま朝まで離さない。


聖人君子を気取っているのは、楓がまだその勇気が出せないからだ。


「・・・・・・・・・そ、れは・・・・・・追々ということで・・・・・・何卒」


取引先への挨拶のような文言を口にした楓を見下ろして、智寿が一つ息を吐いて後ろ頭を優しく撫でた。


「分かってるよ」



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