第41話 苦土橄欖石-1

まさか自分が重箱にお弁当を詰めて、夫の職場まで届ける日が来るだなんて。


エントランスを抜けて、人の行き交うロビーに差し掛かったところで、果たしてこれは正解だっただろうかと急に不安になって立ち止まったら、一気に手にした重箱の重みが増えた気がした。


今日は夜勤だから、と家の戸締りを何度も言い含めて智寿が帰宅したばかりの楓と入れ替わりで出勤して行った後、ここのところ夜勤が続いている彼の食生活がふと気になって、たまには差し入れの一つも持って行くべきなのでは、と思い立った。


新婚ほやほやの妻が、夫にお弁当の一つも持たせずにいるのは外聞が良くない気もする。


智寿は、共働きなんだから家事は出来るほうがすればいいと最初から過度な期待を寄せては来なかった。


仕事場のホテルはちょっとエレベーターに乗ればすぐに美味しい食事が食べられるし、不規則な仕事なので、食事の時間も一定ではない。


初っ端から無理して彼にがっかりされたくなくて、それではとお言葉に甘えて極々最低限の家事と料理のみの省エネ生活を送っている楓である。


元推しの旦那様との添い寝はどうにかクリアして、一緒のベッドで眠ることも覚えた。


最初の頃は、おやすみなさいと伝えて眠りに落ちるまでは、おいそれと彼のもとへは近づけない日々が続いた。


一度真夜中に目が覚めて、間近で熟睡中の彼の寝顔を見つけて悲鳴を上げそうになったことがあるのだ。


30センチは空けて眠ったはずの隙間がぴったり埋まっていたことにも衝撃を受けたし、彼の腕ががっちり腰に回されていたことにも驚いた。


そして、寝ている人間の腕は結構重たいことを知った。


こんな風に初めて尽くしの新婚生活をどうにか亀並みの前進で進んで行っている楓が、お弁当を持って行こうと勇気を奮い立たせたのは、社内の既婚女性のほとんどが、自分の分と旦那の分の弁当を作っているからだ。


残り物ばっかり詰めてるけどねー、節約の為にと、朗らかに笑う彼女たちの温かい笑顔を見ていたら、自分も何かしてあげたいと思ったのだ。


とはいえ、さすがに重箱は作りすぎたかもしれない。


夜勤は一人ではないだろうから、一緒に居るスタッフの人たちと一緒に食べて貰えばいいとは思うが、いきなり手作り弁当はやりすぎだろうか。


こういう場合、まずは菓子折り持参で挨拶に行って様子を伺ってから手作りにチャレンジするべきだっただろうか。


つい先日、楓としては大きな大きな一歩を踏み出して、彼と初めてそれなりの行為に及んだ。


撮影見学に行った東京での一夜は、酔っていたし、記憶もあやふやだったけれど、不思議と怖くはなかった。


智寿の指は熱くて優しくて、終始楓を甘やかしてくれた。


まさか自分じゃない誰かにされるコトがあんなに気持ちいいだなんて。


楓とていい大人なので、自分で自分を慰めたこと位ある。


が、やり方が悪いのか、コツがつかめていないのか、恍惚とするほどの快感を得られたことはなかった。


けれどあの夜はずっと快感の波間を揺蕩って、そのまま溺れそうになった。


身体から始まる恋なんて、絶対あり得ない倫理的に許せない、とずっと思っていたけれど、アレを知ってしまった今なら、気持ちより先に身体が陥落してしまう女性の気持ちが少しだけ分かる。


いや、智寿以外の誰かにされるだなんて、死んでも考えられないけれど。


そんなわけで、いよいよ初夜か、と勇んでマンションに戻ってすぐに楓の生理が始まってしまい、入れ替わりで智寿の仕事が忙しくなって、結局未だ未遂の夜が続いている。


そんなすれ違いの日々を少しでも埋めようと、お弁当作戦に挑んだわけだが。


最近の男性は手作りに抵抗がある人も多いとテレビで見たな、と思い出してしまった。


どうしよう、先走ったかもしれない。


やっぱり持ち帰って明日以降のおかずにするべきだろうか。


一気に膨れ上がった不安と迷いに立ち尽くす楓に声をかけてきたのは、見覚えのある男性だった。


「お客様、どうされました?・・・・・・あ、楓さん?」


上質なスーツに身を包んだホテルマンらしき男性が、温和な笑顔で楓の名前を呼んでくる。


彼と会うのは婚姻届けに署名をお願いして以来だ。


「あ・・・・・・えっと・・・清匡さん!」


智寿の従兄弟の名前を口にすれば、清匡が涼やかな目元を和ませて口角を持ち上げる。


「覚えていてくださったんですね。今日はどうされました?智寿と待ち合わせですか?」


「その節はお世話になりました。あの、待ち合わせではなくて・・・・・・・・・ちょっと、智寿さんに差し入れを持ってきたんですが・・・・・・何も言わずにここまで来てしまって・・・・・・」


「もしかしてお弁当?愛妻弁当なんてみんな羨ましがりますよ。間違いなく智寿も喜びます」


「あの、でも、ちょっと量も多いし、持って行っていいかも聞かずに勝手にしたことなので」


そのうえ、彼のオフィスがホテルのどこに存在するのかすら分からない。


まったく行き当たりばったりの無計画でここまで来てしまった。


どんどん無くなっていく勇気と自信に、帰りたい気持ちが膨れ上がっていく。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る