第46話 蛋白石-2
婚姻届けに署名をお願いした時の感じの良さと溌溂とした若々しさは、楓が持っていないもの。
どうしたって取り戻せないものである。
清匡たちの幼馴染ということなら、智寿とだって仲良くしていたはずだ。
妹のようということは、恐らく親族みんなから可愛がられているのだろう。
見目麗しい彼らの隣に並んだ自分を一瞬だけ想像して、後ずさりする。
今更怖気づいてどうするのか、ともう一人の自分は詰って来るが、気持ちだけはどうしようもない。
「かしこまった会じゃないから、心配しなくていい。家に来いって言われたんだけどさすがにそれは気を遣うだろ?」
「物凄く気を遣います・・・お作法とか」
「いや、恵茉はほんとに普通の家の子だから」
智寿のいう普通の子、と、楓の思う普通の子、は絶対に何もかもが違う。
だって智寿と楓の生まれと育ちが大きく違うのだから。
「それでも、昔から清匡さんたちとお付き合いがあったお家のお嬢さんってことは、それなりのお家ってことですよね?」
「もういまは全員加賀谷だから、関係ないだろ?」
あっさり言ってのけた智寿の言葉に、まだ本当の夫婦じゃないのに、と猶更焦る気持ちが強くなった。
彼に抱かれたからといって、何かが変わるわけではないのかもしれない。
それでも、俯かずに加賀谷智寿の妻だと言えるようには、なるかもしれない。
シトラスのバスボムを溶かした湯船にじっくり漬かって、不安や迷いをすすいだ。
髪も身体も洗っていたので、いつもよりも早くバスルームから出て来た楓に、智寿が驚いた顔になる。
「いつもは心配になるくらい長風呂なのに、今日はどうした?」
先にベッドに入ってた智寿が、タブレットから視線をこちらに向けて来た。
探るような眼差しの中には、まだ情欲の炎は見えない。
果たして彼をその気にするのことが出来るのだろうか。
「・・・・・・ほんとは、智寿さんが帰って来る前に・・・シャワー浴びてて」
「なんだ、そうだったのか」
「ほ、ほんとは・・・・・・・・・帰ってきてすぐに・・・・・・って思ってたんだけど・・・智寿さん雨に濡れて帰って来るし・・・・・・」
「ん?」
話が見えずに首を傾げた彼が、いよいよ妻の様子が可笑しいことに気づいて、サイドボードにタブレットを置いて向き直る。
「楓、どうした?」
「私・・・・・・あの・・・・・・・・・腕の中に・・・・・・・・・お邪魔しても、いいですか?」
精一杯声を張ったつもりだったけれど、やっぱり語尾は尻すぼみになった。
楓の言葉を受け止めて、智寿が一瞬瞠目してからベッドから降りてくる。
ベッドの手前で立ち止まったままの楓の肩を優しく撫でて、彼が視線を合わせてきた。
「・・・・・・・・・え・・・っと・・・・・・・・・それは、いつもみたいに添い寝しろってことか?それとも・・・?」
食い入るように見つめてくる眼差しにあるのは、戸惑い。
何かが足りていないのかもしれない。
けれど、それが何かは分からないし、どうすればいいのかも分からない。
「だ、から・・・・・・私、そのつもりで・・・・・・シャワーを・・・・・・」
彼の指がこの後自分にどんな風に触れるのか想像して、逆上せそうになった。
頼りない知識ではすべてを補うなんて出来なくて、出来るのはもう、彼に身を委ねることだけ。
やんわりと背中を抱きしめた智寿が、耳元で小さく囁く。
「・・・・・・俺に抱かれたくて準備したってことでいい?」
「・・・・・・・・・はい」
必死になってこくこく頷けば、腕の中を覗き込んだ彼がとろりと瞳を甘くした。
飽きるほど見たPrideBeの誌面でも、結婚してからも一度も見せた事のない色だった。
「楓、ちゃんと言って」
さっきまでは見えなかったほの暗いどろりとした熱情がたしかにそこに宿っている。
これからこの人に抱かれるのだと確信できた。
「・・・・・・・・・・・・・・・抱いて・・・私を、智寿さんの本物の奥さんにして」
一番願っているのはそれだけだった。
身も心もこの人と結ばれたいと、今なら心からそう思える。
誰の前でも俯かずにすむように、彼の抱える本当の熱を知りたい。
腰を攫った智寿が、軽々と膝裏を掬い上げてさっきまで横になっていたベッドに楓の身体を下ろした。
膝で乗り上がって来た彼が、片腕で楓の身体を抱き込んで、自分の真下に組み敷いてしまう。
「もう待って、は聞かないからな。俺の理性は品切れだ」
慰めるように背中を撫でる手のひらとは裏腹に、情熱的なキスが落ちて来て、あっさりと楓の思考はたわんで、蕩けた。
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