第6話 紫水晶-2

”意図せず威圧的な印象を与えて怯えさせてしまったようで、申し訳ないって、あんたなんか言われたの?”


と届いたメッセージに、緊張しすぎてろくに喋れないうちに帰ってきてしまったと当たり障りのない返事を返した。


軽蔑されるようなことを言ったのは自分自身だ。


そして、あの日口にしたのはまごう事無き本音だった。


氷河期の時代に長く勤めることが出来る事務職に就ければ何でもよかったし、ぶっちゃけこの仕事に誇りなんて持っていない。


真新しいことがなくとも惰性で続けていられるのは、そうしないと生きていけないからだ。


社会人のすべてが、自分の仕事に胸を張って誇りをもって生きているわけでは無い。


けれど、それをあんな形で彼に吐露したくはなかった。


本当に一番嫌なところばかりを見せつけて、自滅して終わった最悪最低のお見合いだった。


真面目だけが取り柄で生きて来た楓に、ちょっと優しくした運命の神様もきっと今頃途方に暮れているだろう。


友人たちがメインの二次会に年嵩の先輩社員が顔を出すわけにもいかず、丁重に不参加を表明したので、この後の時間がまるっと余ってしまった。


花嫁は今頃二次会用のミニドレスに着替えて、明日から始まる新生活に胸を躍らせている頃だろう。


リコは先輩社員の顔を脱ぎ捨てて愛息子と夫と家族団欒の時間を過ごしているに違いない。


あの時もっと上手く立ち回れていたら、彼女たちにほんの少しでも近づけたのだろうか。


個室で腰を下ろした途端一気に回り始めた酔いに、思考回路が侵され始める。


淀んだ感情は普段ならちゃんと飲み干して整理できるのに、このホテルが最悪のお見合い会場だったせいか、目を瞑れば嫌な記憶ばかり甦ってくる。


椅子に座ったきり手元を見つめてばかりでまともに返事も出来ないコミュニケーション能力に乏しいお見合い相手を、彼はどんな目で見つめていたのだろう。


時間の無駄だな、と呆れていたのだろうか。


来るんじゃなかった、と、後悔していたのだろうか。


もう二度と会わない相手なんだから、未だに単独表紙の雑誌は捨てずに持ってますと最後にぶちまけてしまえばよかった。


思春期から今日までずっとステルス女子だった楓は、好きになった相手に告白したことも無ければ、自分の気持ちを匂わせたこともない。


推しをどれだけ応援していても、手紙を書いたことはおろか、事務所宛てにメールを送ったこともなかった。


ひたすら雑誌を買って自分の内側にのみ燃料を投下して生きて来たのだ。


楓の人生設計において、推しと目が合う未来はどこにも描かれていなかった。


だから、あれは奇跡の一瞬だったのだ。


あの、軽蔑の眼差しが。


考えるな、忘れろ、終わったことだ。


彼からはお断りの返事が来たし、もう会う事もない。


ほとぼりが冷めた頃に、保存版のPride Beは処分して、過去に別れを告げよう。


あれが無くなったら、完全に無かったことに出来る。


仕事はあるし、家もある、一人でも生きていける、大丈夫だ。


卒乳してからこれまでの禁酒時代を取り戻すかのように酒を飲み始めたリコのペースに合わせていたから、いつもより飲みすぎたらしい。


足が震える気がするが、まあ後は帰るだけだしどうにかなるだろうと立ち上がって洗面台に向かう。


酔っているとはっきり分かるくらい火照った頬と潤んだ瞳の自分は、なんとも心許ない表情をしていた。


唇を引き結んでこんな時でもないと出番のないチェリーレッドのリップを塗り直してパウダールームを出る。


足音を消し去る毛足の長い絨毯は、久しぶりのピンヒールに絡みついてきて、酔いと相まって思うように前に進めない。


つんのめるようにつま先に力を込めた瞬間、ピッとストッキングが引き攣れる感覚が走った。


「・・・・・・っ・・・・・・もう・・・最悪」


エレベーターホールで立ち止まってちらりと足元を確かめれば、膝の後ろまで伝線が伸びてきている。


懸命にやって来たつもりだった。


誰かの不幸を願ったことなんてないし、誰かの幸せを横取りしたこともない。


それなのになんで、こんなに神様は、一人にだけ優しくないのか。


明らかに結婚式帰りと分かる女性客が一人で酔って泣くなんて、みっともないことこの上ない。


下まで降りて、リムジンバスに乗って駅前のコンビニでストッキングを買って履き替えて電車に乗って。


自宅までの距離が海外並みに遠く感じる。


俯けば涙が零れることは確実なので、必死にエレベーターの階数表示を睨みつけた。


誰も乗っていませんようにと祈りながら、待つこと数十秒。


開いたエレベーターの中から、どうぞ、と静かな声が聞こえて来た。


こんなところまでやっぱり神様は優しくない。


立ち尽くしたままの楓に向かって、パネルの前に立っている男性が手のひらを指し示す。


「・・・・・・すみませ・・・」


くすんと鼻を啜って仕方なくエレベーターに乗り込むと、パネルを操作していた男性がこちらを見下ろして来た。


「何階で・・・・・・・・・」


「・・・・・・・・・」


よりによって今一番会いたくない、出来れば二度と会わずに忘れて欲しいくらいの相手が、目の前にいた。







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