第18話 緑柱石-2

「前の彼氏は、あまり飲めない人だった?」


絡ませた指の隙間を擽られながらの質問に、一瞬だけ酔いが醒めた。


「え・・・・・・っと・・・」


そういえば、出会ってから一度もその手の話をしてこなかった。


楓には語れる過去が無いので、自分からこんな質問は絶対に投げない。


三十路過ぎの大人が、男女交際未経験で結婚って・・・・・・さすがに言えない。


苦笑いを浮かべて、これまで友人たちから同じ質問が来たときにしていた返答を口にする。


「智寿さんは、どうでした?」


秘儀、質問返しだ。


察しのよい友人は、話し難い過去があるのだろうと慮って話題を変えてくれることが多いのだが。


「飲める人もいたし、下戸の女の子もいたな・・・・・・業界に居た頃は、ワイン派の女子が多かった気がする」


「ああ・・・ポリフェノールがいいとか言いますもんね」


モデルと赤ワイン、なんとも絵になるではないか。


嫉妬よりも関心してしまうのは、彼に過去が無いなんて一ミリも思わないからだ。


「山ノ霞用意したら、ほんとに俺の部屋来る?」


つないだ手に、少しだけ力が込められた。


いくら恋愛未経験の楓でも分かる。


智寿から、誘われているのだ。


それはつまり、外泊のお誘いで、彼の部屋に行くという事は、身体を許すということ。


楓の両親への挨拶は終わったし、二週間前から沖縄の別荘で過ごしているというリタイア済みの智寿の両親には、ビデオ通話で挨拶をした。


結婚の許可は貰っているし、お互い一人暮らしの社会人同士。


このご時世、婚前交渉は駄目なんて言う古い人間は一人もいない。


むしろ相性を確かめて当然という意見すらある。


ちょっと待って、初夜に必要な準備って何!?


自分へのご褒美で月に一度給料日の後に通っているマッサージは、揉み解すのみで、痩身ではない。


割引券に惹かれてボディトリートメントの施術を受けたのは・・・やばい半年前の話だ。


脱毛は、ギリセーフ、でも、今からダイエットしてどうにかなるもの?


三食もやし生活にしたら何キロ落ちるだろう。


ああ、でも前にインフルやって体重が一気に落ちた時はお腹の贅肉と一緒に胸も一気に減って、ブラを買い替えることになった。


っていうか、下着!!!


無駄に肉付きのよい胸をこれ以上寄せるようなのは付けたくないけれど、それなりに見栄えのするものは付けるべきだろう、だって初夜だし。


何から手を付ければ頷けるのか分からずに、真っ赤になって黙り込む楓の手を、智寿が軽く引き寄せて来た。


ビルの影になる場所で立ち止まった彼が、そっと腕を回してくる。


背中を優しく撫でられて、今まで一番智寿を身近に感じた。


ほのかに香るのは香水と彼自身の匂い。


吸いこんだ胸が一気に早鐘を打ち始める。


慣れた手つきで下ろし髪の隙間を塗って、項を擽った智寿が、真上から覗き込んできた。


「こういうのは、嫌?」


囁き声と共に耳の後ろをなぞられて、得も知れぬ感覚が背筋を駆け上がってくる。


未経験でも、これが他人から与えられる快感なのだと否応なしに理解した。


自分で自分を慰めるのとは全然違う心地よさともどかしさに眩暈がする。


「嫌・・・じゃ、ない・・・けど・・・」


なんと応えればよいのか分からない。


耳たぶを食んだ彼の吐息が首筋を掠めて鎖骨まで落ちていく。


楓がふらつかないようにと腰に回された逞しい腕は、少々動いてもびくともしない。


殆ど楓の身体に力は入っていないのに、顔色一つ変えることなく彼が開いている手で反対の耳たぶを撫でて来た。


「んっ・・・」


甘く響いた自分の声に、慌てて唇を噛みしめる。


智寿の胸に腕を突いて突っぱねている状態の婚約者を見下ろして、智寿が眦を緩めた。


ここで瞳を甘くしないで、と泣きそうになる。


だって今日は本当に、下着まで準備できていない。


「嫌じゃないけど・・・・・・・・・困る?」


吐息で囁いた彼の唇が、優しく頬を掠めて来た。


そのままするする輪郭を辿り始めた智寿が、気まぐれにこめかみに、耳たぶにキスを落とす。


間近で聞こえるリップ音にひええええと叫びそうになった。


初心者には刺激が強すぎる。


その唇がいつ自分のそれを塞ぎに来るのか考えただけで、脳が沸騰する。


目を伏せながら、どうにか彼の名前を呼んだ。


これは無理だ、隠し通してこのまま流されたらとんでもない事になる。


「と、智寿さ・・・」


か細い声で呼ばれた彼が、それを了承の意味だとと捉えて、指先を顎に引っ掛けて来た。


「っ!」


近づいてくる端正な面差しから、反射的に顔を背けてしまった。


「・・・・・・」


避けられたと気づいた智寿が、ぱっと顎から手を離した。


「ごめん・・・焦りすぎた・・・俺もこういうのは久しぶりだから・・・」


距離を取ろうとした彼の胸元にしがみついて、反射的に口を開いていた。


「あ、ち、違うんですっ!あのっ・・・わ、私・・・キスどころか・・・誰とも付き合ったことが・・・その・・・なくて・・・」


「え・・・」


真顔になった智寿の顔を見ていられずに視線を下げる。


「だからっ・・・嫌なんじゃなくて・・・・・・その・・・どうしていいか・・・わかんなくて」


震える声で全部ハジメテなんです、としょげた声で告げれば。


「・・・・・・ごめん・・・・・・じゃあ・・・最初から、ゆっくりしよう」


静かに答えた彼が、今度は顎先を持ち上げることなく、屈んで視線を合わせて来た。


黒曜石のきらめきが細くなって、そっと唇を啄まれる。


人生で初めてくれた元推しの唇は、ほんのり日本酒の味がした。

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