第19話 金剛石-1
「こっちまで来てもらって悪い」
待ち合わせ場所のエントランスロビーまでやって来た彼は、今日もやっぱりかっちりとしたスーツ姿だ。
推しのスーツ姿はこの上ない眼福である。
長身で筋肉のついた智寿の体型に合ったオーダーメイドは、彼の男ぷりを二割増しに引き上げていた。
もちろん、お世辞抜きにしてである。
「いえ!滅相もないです!すぐそこですし、呼ばれればいくらでも・・・あの、喜んで」
今日も元推し現婚約者が最高に尊いです。
ロマンスの神様どうもありがとう。
雨だろうと嵐だろうと決死の覚悟で馳せ参じます、と心の中で付け加える。
こんなこと言って良いのだろうかと戸惑いながら視線を上げれば、頭一つ上にある智寿の眦がほんの少しだけ柔らかくなった。
あ、これは正解だったらしい。
三秒目を合わせたら、もう合格ということにしてあるので、早々に視線を前に逃がす。
今日もご尊顔を拝謁出来て恐悦至極に存じます、とついでに心の中で拝んでおく。
手首のスマートウォッチで時間を確認した彼が、行こうと軽く背中を押して、エレベーターホールへ歩き出す。
エスコートするために添えられた手のひらに意味なんてないのに、そこに意味を見出したくて仕方なくなるのは、自分が恋をしているせいだ。
そう、人生初めての恋を。
モデル時代から雰囲気のある大人びた男性だった彼は、当たり前のようにこういった所作をする。
恐らくこれはホテル勤務だから、ではない。
そういう風に育てられたからだ。
エレベーターホールで立ち止まった智寿が、身長差を埋めるように顔を近づけてきた。
最初にこれをされた時に飛び跳ねるようにして後ずさってしまってから、先に彼の腕が回されるようになった。
至近距離でなくては気づかないほのかなムスクの香りに、意識が蕩け始める。
「あんまり俺を調子に乗せないほうがいいぞ。痛い目見るかも」
あの最悪のお見合いの一幕が嘘のように柔らかい声で智寿が囁いた。
彼の声が甘ったるいから、自然と頬は赤くなる。
「え、そうなんですか!?っていうか、智寿さん、調子に乗ってます?今日もいつも通り・・・かっこいいですけど」
言わずに秘めるのは勿体ないとあの日気づいてから、これまでのステルス女子歴を返上するかのように智寿に会うたび褒めちぎっている楓である。
当然すべて本心から。
だって彼に言葉を届けていないと、この状況がいまだに信じられないのだ。
「そうやって褒められるから、浮かれるんだよ」
「・・・・・・智寿さんも、浮かれるんですね」
「そりゃあ・・・・・・浮かれるだろ・・・・・・」
楓が彼に真っ直ぐな愛情を向ければ、鋭い眼差しをほんの少し柔らかくして彼は耳を赤くする。
そして仕返しのように甘ったるいスキンシップが返って来る。
自分の思いが一方通行ではない事実が、こんなに胸を高鳴らせて、世界を鮮やかにするなんて。
好きな人がいるこの世界のすべての女性に、恋っていいね!と伝えたいくらいだ。
「浮かれすぎて嫌われないようにしないとな」
目を伏せた彼が、背中を優しく撫でて先にエレベーターに乗り込んだ。
追いかけて乗り込んで、ドアが閉まりきった直後につむじにキスが落ちる。
モデル時代の彼は、こんな甘ったるいスキンシップとは無縁のイメージだっただけに、破壊力が抜群だ。
「なんかいつもより視線が近い・・・・・・」
「・・・・・・このほうがいいかなと思って・・・・・・」
「・・・・・・俺的には都合良いけど、足疲れない?」
「こういうのは・・・・・・ハジメテなので・・・ちょっと頑張りたいなって」
「いざとなったら俺が屈むから、無理しないように」
どういう場合がいざ、になるのか想像して、一気に頬が火照った。
数回しか重ねていない唇の記憶が自動的に甦ってきそうになる。
一度目のキスを、恐れ多すぎて思い切り避けた楓に、智寿は困った顔で小さく笑った。
それから、俺もこういうのは久しぶりだから、と照れたように零した彼に、私は人生で初めてです、と包み隠さず真っ新な恋愛遍歴をぶちまけて、一瞬彼を真顔にさせた。
そのあとに交わした最初にキスは、もう思い出すだけで頬が緩んでしまう。
比べる誰かを知らない楓にとっては、彼のどこが久しぶりなのかさっぱりわからないくらい甘ったるくて心地よいキスだった。
思春期だった頃の初心な自分が盗み見たら、鼻血を吹いて卒倒するに違いない。
183センチの彼と、163センチの楓では、ちょっと身長差がありすぎる。
これまでは足が楽ちんの5センチヒールを好んで履いていたが、思い切って洋服を新調したついでに7センチヒールを何足か追加購入した。
いつ彼にランチに誘われてもいいように、平日だってお洒落に気を抜けない。
全力で飛びついたチャンスの神様の前髪を手放してしまわないように、これでも必死なのだ。
楓の足元を確かめた智寿が、到着したエレベーターの開くボタンを押して、足元気を付けてと注意を促してくれる。
推しから気遣われるこの特別感は、何物にも代えがたい。
いまだに毎朝起きるたび、メッセージアプリの履歴を確かめてこれが現実なのだと確かめずにはいられないのだ。
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