第10話 菫青石

「ええ、それで急だとは思うのですが、出来るだけ早く日取りをご相談できればと思いまして・・・ご都合はいかがでしょうか?」


清匡の執務室で、眼下に広がる昼の海を眺めながら丁重に切り出せば。


『ご都合だなんてそんな!うちはいつでも暇してますから、加賀谷さんのご家族でいいように決めていただければ。うちとしては娘を貰って頂けるだけでありがたいのに・・・』


お断りの連絡を入れた時の数倍明るい声が返って来てホッとする。


この感じなら、強引にスケジュールを組んでもクレームは出そうにない。


一度は断りを入れた見合い相手にプロポーズしたのだから、楓の両親の心証は良くないだろうと踏んでいたのだが、予想外にあっさりと受け入れられて、少々肩透かしを食らった。


もう少しごねられるだろうと思って、最終的には身内に頼ろうとわざわざ清匡の部屋まで来て電話を架けたのに。


母親の返事を鵜呑みにして良いのなら、独身だった娘の嫁ぎ先が決まってラッキーというところだろうか。


そのうえこちらには”加賀谷”という肩書きがある。


ホテル経営には欠片も携わっていないが、これでも一応一族の端くれで株主でもあるので、サラリーマン家庭からすれば、高望みな優良物件になるようだ。


本人はこんな感じなのに。


「こちらこそ。素敵なご縁を頂けて本当に感謝しています」


楓が見つからなければ、この先もきっと一生独り身だったはずだ。


『素敵なご縁だなんて!これといって取り柄のない地味な子ですけど、性格だけはいいんですよ』


そこだけは自慢できるんですよ、と念を押してくる母親にでしょうねと大きく頷いた。


彼女の口から零れる言葉には、嘘も欺瞞も含まれていなかった。


ただただ純粋に、寿の事が好きだったと告げられた瞬間、どれくらい心が揺さぶられたか。


モデル時代の怜悧な自分が好みだということは、つまりこの強面を見ても恐怖を感じないという事だ。


年齢と共に険しくなった表情を今更和らげることなんて出来ないし、これはもう結婚を考えられるような女性とは縁がないなと思っていたが、ちゃんと運命の神様はいるらしい。


「ええ。とても素直な優しい女性だと思います。僕にとっても理想的な女性です」


第一に自分を怖がらない事。


それが第一条件で、その次は価値観の一致だが、加賀谷の肩書き抜きで自分を好きだと熱に浮かされたように零した彼女を前に、価値観なんて正直どうでも良くなってしまった。


この先どれだけ探し回っても、楓以上の良縁は望めないとさえ思う。


『まあまあ!そんなこと言って頂けて!気が変わらないうちに入籍だけ済ませて貰いたいくらいだわぁ』


「ご両親さえお許し下さるなら、すぐにでも」


半ば本気で告げれば。


『本当に?んもう、加賀谷さんは決断力もおありになるのねぇ。優柔不断なうちの娘とは大違いだわぁ。すべてお任せしますので』


なにもかもご随意に、と夢のような返事が返ってきて、久しぶりに頬が緩んだ。


両親の許可が貰えたのなら怖いものはない。


あとは楓の気が変わらないうちにゴールテープまで駆け抜けるだけ。


「入籍日や今後のことについては、お嬢さんと相談してから改めてご報告させていただきます」


『ええ、ええ。お待ちしておりますねぇ。楓が勝手なことばかり言ったらすぐに連絡してくださいねぇ。きちんと言って聞かせますんで』


「その心配は必要ありませんよ。お嬢さんを困らせないように上手くやって行きますから」


安心させるように答えれば、頼もしいわあ、とハートマーク付きの返事が返って来て、どうせならそれは彼女の口からききたいな、とふやけた頭で思った。


それでは、と通話を終えて、執務机で仕事中の清匡を振り返る。


「で、俺の出番はなし?」


肩をすくめた清匡に悪いなと一つ頷いた。


「支配人が挨拶したら、頷いてもらえるだろうと思ったが、必要なかったな」


「向こうのお母さんは大喜び?」


「入籍日諸々こっちに丸投げしてくれた」


「それは良かった。で、肝心の婚約者には?」


「ん?これから連絡するよ」


母親に根回しをしたのだから、これで逃げられる心配はない。


泣きじゃくる楓にプロポーズしたのは完全に勢いからだったが、頷いてもらえたので結果オーライという事にしておく。


あとは、昨日の出来事が夢まぼろしに消えないうちに、彼女の心をしっかりと繋ぎ止めるだけ。


これまでは、こういう顔が好きな個性の強い女性とばかり付き合って来たので、自分から計画を立てて近づいた女性は一人もいない。


捕食者に回った自分が意外とこの状況を楽しんでいることに気づいてしまった。


彼女を怯えさせず上手く絡め取る方法を考えなくてはならない。


「彼女が寿のファンだったのは僥倖だけど・・・ほんとに大丈夫なのか?」


顔をしかめた清匡が、ブルーライトカットの眼鏡を外してテーブルの端に置いた。


「なにが?」


「向こうからしたら、お前は元業界人な訳だろ?その・・・結婚とか夫婦生活とか、夢と現実の違いに愕然としたり・・・」


「そうならないようにする」


「・・・・・・言うのは勝手だけど・・・」


「俺を既婚者にする為にお前も協力してくれよ。とりあえず、支配人権限でレストランフロアの予約押さえてくれ。女性が喜ぶオーシャンビューの特等席な」


頼むぞ、と言い切った智寿に、清匡が諦めた表情で一つ頷いた。

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