第9話 金紅石
「あんたにそんな熱い過去があったなんてねぇ・・・」
食品保管庫から定期的に届けられる差し入れの中から、本日はフルーツジュースを選んだリコが驚いた顔で言った。
受注センターの冷蔵庫には、西園寺倉庫が在庫として持っているドリンク類が常に常備されている。
同じように冷凍庫には、アイスクリームとシャーベットが大量保管されており、自由に飲み食いできるようになっていた。
どれも賞味期限間近で商品として出荷できないものばかりだ。
廃棄処分になる前に、従業員たちに配られるので、ここに勤め始めてからジュース類を自腹で買う機会はめっきり減った。
楓が選んだのは果汁100パーセントのグレープフルーツジュースだ。
パックにストローをさしながら、苦笑いを返した。
昨日挙式披露宴の後、元推しのお見合い相手とホテルで偶然再会したこと、パニックになった楓が、モデル時代の彼のファンだったことを伝えたら、その直後にプロポーズされたこと。
ジェットコースター並みに波乱万丈な半日だった。
振られたはずの相手からまさかプロポーズされるとは思わなかった。
そのうえ相手は元推し。
こんな夢みたいなことあって良いのだろうかと思いながら、回らない頭で浮かんだ言葉をそのまま口にしていた。
『・・・・・・嬉しいです』
現実味皆無で答えた楓は、彼が紡いだプロポーズの言葉を改めてかみしめて、そこからさらに大号泣した。
結局あの後連絡先を交換して、タクシーまで送ってもらった。
智寿は、後日改めて話をしようと楓に言って、ちっとも冷静じゃない楓はそれにこくこく頷いた。
みっともないくらい泣き腫らした顔で自宅まで戻って、鏡に映る自分の顔を見て、うわ、ひど、と呆れて、ぼんやりしたままバスタブにお湯を張って、いつもより長湯した。
鈍っていた頭は身体が温まると同時に、ふやけて使い物にならなくなって、披露宴でお酒を飲んでいたせいもあってそのまま朝まで眠ってしまった。
そして今朝目が覚めて、あれは夢だったんだ、と思った矢先、智寿からメッセージが届いていた。
”今日は突然驚かせてしまって申し訳ない。ゆっくり休んで。明日、連絡をください”
昨日の再会もプロポーズも夢じゃなかったのだと実感して、けれど未だに信じらなくて、いつもより1時間も早く出社して、早当番の後輩たちに驚かれて、時々呆けながら昼間で仕事をして、現在に至る。
無心にキーボードを叩いていると思ったら、突然宙を見てぼんやりする楓を訝しんだリコが、昼休憩のタイミングで声を掛けてくれたのは、ありがたかった。
誰かに話さないことには、頭の整理が出来なかったから。
「推しと結婚って凄いじゃないの。しかも加賀谷ってレガロマーレの経営者一族ってことでしょ?あんた玉の輿じゃないのそれ」
「・・・・・・これって、現実だと思います?」
「相手から連絡が来てないなら、寂しいあんたの妄想かホラ話だって思うけど、実際にメッセージも届いてるんだから、どう考えても現実でしょ」
しっかりしなさいよ、とべしりと背中を叩かれる。
智寿からのメッセージには悩みに悩んで無難な返事だけを返した。
”昨日は大変お世話になりました。ありがとうございました。”
真新しいストッキングを用意して貰ったことは事実だが(実際履いて帰ったので)それ以外のこと(主にプロポーズ)は確証がないのだ。
いきなりの再会にパニック状態に陥った自分が作り出した幻かもしれない。
だから、私たち結婚するんですよね?とは怖くて訊けなかった。
というか、冷静に考えて元推しと夫婦になるとか・・・・・・ちっともリアリティがない。
昔も感じていた品の良さは、育ちの良さだったのか、と納得はしたものの、自分が、ホテル事業をいくつも展開する加賀谷一族の仲間入りするなんて、あり得ない。
「いやぁ・・・でも昨日の私ほんとに冷静じゃなかったからなぁ・・・」
しみじみ呟いたところで、スマホが震えた。
見ると液晶画面に母親と表示されている。
「あ、お母さん・・・ちょっと失礼しますね」
休憩スペースの椅子から立ち上がると、リコがひらひら手を振って来た。
廊下に出て、受注センターの外に向かいながら通話ボタンをタップする。
『ちょっと!あんた凄いじゃないの!!!』
スマホを耳に当てる前に聞こえて来た大声に、慌てて手元のそれを耳から遠ざけた。
「え、なに?いきなり」
『なに、じゃないわよ!さっきね、加賀谷さんから連絡があったのよう!先日お嬢さんに偶然お目に掛かりまして、改めて結婚を承諾して頂きましたって!なによもう!一度逃げて焦らすような手管、あんた持ってたのねぇ!やるじゃないの!心配して損したわぁ!』
嬉しくてお父さんにも電話しちゃった、とはしゃぐ母親の声に、あ、現実だ、と思い知った。
昨日のやり取りは、紛れもなく本物だったのだ。
結納の日取りがどうの、顔合わせがどうの、と今後のスケジュールを口にする母親の声をどこか遠くに聞きながら、自分の人生のレールが別ルート向かってに走り出したことを悟った。
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