第34話 桃簾石-1

来シーズンの新作の撮影が終わって、一週間ぶりに日本に戻って、チームをバラすと同時に真っ先に昔馴染みの顔を見るべく、レガロマーレまで足を伸ばした。


この後は三日間のオフで、そのうちの二日は放置していた可愛い恋人を構うために使うつもりなのだが、まさか初日をこんな形で過ごすことになるなんて。


渡航準備と、スタッフとの打ち合わせに追われているさなか、懐かしいアドレスから届いたメールには、衝撃的な一言が書かれていた。


モデル業を辞めてから、全く別の道を歩くことを選んだ元相方は、最初からこの業界に興味も希望も持っていなかった。


最初、ファッション誌のモデルをして欲しいとオファーを受けた時も、さっぱり乗り気ではなかった彼の背中を押したのは、短い拘束時間で普通のアルバイトの数倍の稼ぎが貰えるから。


アイドル雑誌のように無理に笑わなくていい、とカメラマンから言われた事も、きっかけの一つになったようだが、とにかく、あの頃から智寿は、数年先の別の人生を常に思い描いていた。


彼がこの業界に興味を持って、残りたいと思ってくれれば、事務所に引き留めて一緒に後進育成と経営に回りたいと考えていた将太の願いは最後まで叶うことなく、モデル卒業と同時に二人の道は完全に分かたれた。


あれから10年以上が経って、いきなり届いたメールで結婚を知らされるだなんて。


”縁あって結婚した。親父さんたちにもよろしく伝えておいてくれ”


は!?結婚!?縁あってってどゆことよ!?


モデル時代は華やかな女性たちに囲まれて、それなりに楽しい青春時代を謳歌した二人である。


けれど、加賀谷の名前を持つ智寿が、その中の誰かを本気で選ぶことは最後までなかった。


モデル業から離れると同時に業界関係者とのつながりを一切絶って、システムエンジニアとしての生活を始めてからの彼のプライベートは謎なまま。


結婚に踏み切れるような相手と出会えたのなら喜ばしい限りだが、彼の性格を考えると割り切った、政略結婚も十分に考えられる。


加賀谷の名前にあやかりたい人間は、業界にも大勢いた。


どうせメールで質問しても返事なんて来ないだろうし、電話はとっくの昔に解約済み。


こちらから定期的に職場に送るコレクションの案内ハガキだけは受け取ってくれるものの、時折ホテルまで足を運んでも面倒くさそうにレストランフロアに案内されるばかり。


元々性格が正反対で、一つも重ならないところが、逆に心地良かった。


社長の息子ということで、周りから気遣われることが当然の環境で育って来た将太に、智寿だけは遠慮なしに本音をぶつけてきた。


それは、撮影においても同じことで、将太のわがままを諫めるのが智寿の役目だった。


素っ気なさすぎる元相方の現在の様子が気になって、新婚生活の惚気話の一つでも聞き出してやろうとこうして単身やって来たわけだが。


ホテルのエントランス前でタクシーを降りた途端、少し先に停まっているタクシーに向かう男女を見つけて思わず二度見する羽目になった。


見間違えるはずのない長身と精悍な横顔は間違いなく智寿のもので、そんな彼がキツすぎると言われ続けていた眼差しを柔らかくして隣の女性を見下ろしているではないか。


すぐにわかった、あれが奥さんだ。


業界人では有り得ない控えめな、はっきり言えば地味な見た目の彼女は、貞淑な妻と言われれば納得の雰囲気だ。


今の流行を適度に押さえつつ絶対に冒険しないオフィスカジュアルスタイルは、良妻にはぴったり。


履いているヒールも紺で、彼女によく似合っている。


スタイルは決して悪くないが遠目に見てもかなり胸が大きい。


ファッションモデルはスレンダーな女性がほとんどだったから、真逆のタイプに惹かれたとか?


質問したいことが次々と浮かんでくる。


それにしたってその顔は何だ。


どんなに気を許している仲間内でも、あんな風に眦を緩めることは殆どなかったのに。


政略結婚で愛が芽生えたパターンか?


だとしたら意外過ぎる。


一体智寿は、彼女のどこに惹かれたのだろう。


「まだ20時前だし、電車で」


「向こうの駅から一人になるだろう」


「残業の時はもっと遅くもなるし」


「その時は俺が仕事場まで迎えに行くよ」


「智寿さんも仕事が」


「そのあたりは上手くやるよ」


「上手くやらなくていいんですよ!?」


「いいから乗って。俺ももう戻らないと。今日は日付が変わるから、寝る前の電話はしない。戸締りちゃんとしろよ」


「分かってます。今日も忙しいですねぇ・・・お仕事頑張って」


開いたタクシーのドアの手前で立ち止まった新妻が、智寿を見上げて微笑んだ。


あ、笑うと意外と艶っぽいじゃないか。


あと、声が優しくて可愛い。


ふうん、こういうところに惹かれたわけか、と納得したところで。


「ん」


小さく頷いた智寿が、新妻の肩を抱き寄せてこめかみにキスを落とした。


「楓、おやすみ」


聞いたことの無いような優しい声で新妻に別れを告げて、彼がタクシー運転手に一言声を掛けている。


目の前で起こった出来事を、脳が正しく処理しきれない。


「・・・・・・‥マジか」


将太の知っている智寿は、往来でこんなことをするタイプでは無かった。






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