第35話 桃簾石-2

「新妻ちゃん、楓って言うんだ?」


仕事場に戻ろうとした背中に、聞き覚えのある声がかかって、すぐに肩を組まれた。


この距離感と力加減で相手を悟る。


「将太、何しに来た」


「何って・・・うーわ・・・ひっどいなぁ!結婚の報告もメール一本で済ませて、未だに連絡先すら教えようとしない元相方を祝いに来たに決まってんでだろ。あれだね、新妻なんかエロいね」


走り去っていったタクシーの方に顔を向ける将太の頭を押さえつける。


それは夫である智寿だけが口にしていい特権である。


どこを見てそう思ったのかは自分のためにも訊かないでおく事にする。


今日のシャツワンピースはいつもよりも襟元が開いていて、一緒に過ごす分には目の保養に違いないが、これから一人で帰すとなると色々と心配になった。


しっかり運転手の顔と名前も確かめておいたけれど。


「・・・・・・おい」


「うっわ、さっそく独占欲?すごいなぁ結婚て!あの子なに、どこのお嬢さん?やけに気に入ってるみたいだけど、そっちの相性良かったの?」


「お前はその口をすぐに閉じろ。俺はこれから仕事だ」


「ええーどうにかしてよ。どうせ暇だし一泊していくからさぁ、部屋で飲もうよ。寝ないで待ってる」


ハートマーク付きで片目をつぶってやると。


「歳考えろお前は」


鋭い眼光と共に冷たい一言を投げつける。


そう、あの頃もこんな感じだった。


不躾にぽんぽん思ったことを口にする将太は、ムードメーカーでもあったけれど、彼の身勝手な行動に振り回されることも少なくなかった。


そのたびこうして智寿が窘めたり叱りつけたりして来たのだ。


「その考え方もう古いって、人は見た目が百パーセント。若くいれば気分も二十代のまま」


「んなわけあるか、いい加減落ち着け」


「で、どこのお嬢さんなのよ?」


聞くまでは動かないよと目線で示されて溜息を吐く。


まさか見られていたとは。


しかも楓の名前まで聞かれてしまった。


「どこって・・・・・・普通の一般家庭の一人娘だよ」


「え、一般家庭?じゃあなに、恋愛結婚!?どこであのタイプと知り合うわけ?なんか出会いの場に足運ばなさそうな感じの奥さんなのに?」


あの数十秒の間で楓の容姿から雰囲気まで確かめて分析してくるところが憎らしい。


モデル業をしていた頃から引く手あまたで、既婚者の熟女から未成年まで転がしていた男の本気を見た。


「見合い結婚」


「・・・・・・一般家庭のお嬢さんと?」


「そうだよ、悪いか」


「悪かないけど、へえー意外・・・・・・声と胸に惹かれちゃった?」


分からなくもないよ、とニヤニヤ笑う将太の肩を遠慮なしに殴る。


あの声は智寿仕様で、他の男に聞かせるべきものではない。


やっと最近距離が縮まって来て、いよいよ初夜がやってきそうな雰囲気なのに。


「・・・マジで帰れ」


疲れた声でしっしと追い払うように手を振れば。


「会うの2年ぶりだよ?ちょっとくらい付き合ってくれないと、奥さんのこと勝手に調べるけど?」


「調べてもなんも出てこねぇよ。つか勝手なことすんな」


「ええー?でも、元カレの情報とか、知りたくない?」


青春時代のあーんなこと、こーんなこと、出てきちゃうかもよ?とこれ見よがしに告げられて、思わず頬が緩んだ。


「・・・・・・・・・」


黙り込む智寿をいぶかし気に眺めながら、将太が首をかしげる。


「え、なに、なんで笑ってんの、智寿。気持ち悪いんだけど」


「そっちも、どれだけ調べても出てこねぇよ」


どうせこの男の事だから、嫉妬に狂う昔馴染みをからかって遊びたいのだろうが、残念ながら楓にはその過去が無いのだ。


「うわなに、すでにチェックして抹消済み?旦那の嫉妬こっわ!」


「ちげぇよ。過去がないから」


「・・・は?え、なに、どゆこ・・・・・・・・・ちょ、マジ!?経験ナシ!?しょ・・・」


爆弾発言を落とそうとした将太の口を素早く塞いで未然に防ぐ。


ここは一応格式ある高級ホテルなのだ。


「往来でなんつーこと口にすんだ、馬鹿」


「だって・・・あの身体で?」


「お前な、本気で殴るぞ」


それは俺もちょっと思った、とは死んでも言わない。


「えええーアレで未開発とか美味しすぎる・・・そりゃあ寝不足でクマ作るわぁ・・・なに、毎日イチャイチャ朝までハッスルしてんの?」


しらふとは思えない下世話な問いかけが飛んできて、とうとう閉口した。


本当はとっくにそうなっている予定だったのだ。


少なくとも、あの柔らかい胸の感触くらいは確かめているつもりだった。


いや、多分それをしたら、もう中途半端で終われないけれど。


「・・・・・・・・・」


「隠すことないでしょ今更。お前の筆おろしの相手俺の知り合いだしぃ・・・どう?やっぱりハツモノは病み付きになるの?」


高1の夏休み、将太の父親の持つ別荘に友人何人かで遊びに行って、近くの別荘に遊びに来ていた父親の仕事仲間たちと合流して、そのまま流れでそうなった。


翌朝待ち構えていた友人たちに質問攻めにあったのは苦い思い出だ。


あの頃から将太と居ると赤裸々な話題が絶えない。


隠し通して楓に突撃されるのは困るな、と諦めて口を開いた。


「・・・・・・・・・‥てない」


「え?なに?」


耳を近づけて来た将太に向かってポツリと零す。


「まだしてない」


隣で、天使の笑顔が売りだった元モデルが、ポカーンと魂が抜け落ちたような顔になった。


「・・・・・・・・・・・・は、なにやってんのお前」



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