第37話 紅玉-2
「ほんとに何の未練もなかったみたいにあっさりこの仕事から手ぇ引いちゃったからね、人にも物にも執着しないタイプなのかなぁって思ってたのよ。言われた指示をきちんと理解して欲しい表情と見せ方をしてくれる、使いやすいモデルだったんだけど、その拘りのなさがちょっと寂しいなって思うところもあってねぇ・・・SEって仕事は、彼の性格的には合うんだろうけどそのままずるずる独りに慣れさせちゃうのは勿体ないなと思ってたから、お嫁さん見つけてくれてよかったよ」
「・・・・・・特徴が無さすぎる妻なんですけど」
大丈夫でしょうか、と呟いた楓に、元編集長がぶはっと噴き出した。
「いや、あいつもともと一般人で居続けるつもりでうちのモデルやってたから、妻に大げさな肩書は求めてないと思うよ」
「あはは・・・肩書求められても出せないんですけど」
「自分が大切にしたい相手が結婚相手になるんだから、その点君は合格。文句なしの満点だよ。ってバツ2の俺が言っても説得力無いけど」
「え?」
「ここに入ってから、ずっとカメラ向く以外の視線が奥さんのこと追っかけてるもんな。あいつがあんなに分かりやすく誰かを気にするところ、初めて見たよ。いやあ、新婚っていいねぇ。俺も三度目の正直狙っちゃおっかなぁ」
ご馳走様、と笑ってスタッフに話しかけに行く彼の背中を見送っていたら、衣装を着替えた智寿がこちらにやって来るところだった。
「退屈してないか?」
「場違い感半端なくて圧倒されてます」
どこにいてもそわそわと落ち着かないのは、ここでは自分が完璧な異分子だから。
けれど、それが不愉快ではない。
こんな風にあの頃雑誌が作られていたんだと肌で感じられる距離感は最高に贅沢だ。
隣の大きすぎる芝生をちょっと覗き込んだような優越感を感じられる。
「・・・・・・・・・そういう正直なところはほんと尊敬する。俺ももう場違いだよ」
「智寿さん、いまもかっこいいですよ!」
ここぞとばかりに全力で今も推せますと告白すれば。
「・・・・・・・・・分かったから、ここではちょっと控えめに」
困ったように彼が視線を泳がせた。
狼狽える智寿を見るのは初めてかもしれない。
貴重な一瞬を保存しておきたいなと思ったら、間近でシャッター音が聞こえた。
「いい顔貰っちゃったなー」
にやっと笑ったカメラマンを振り返って、智寿がばつが悪そうに顔を顰める。
「ちょ、芝さん!」
「いいじゃない。新婚寿のデレ顔。古参ファンは泣くかもね」
「泣きます!」
「あれ?奥さんもしかして寿のファンなの?」
「う、あ、え、は、はいっ」
「あらー推しゲットしたんだーよかったねぇ!んじゃあ後で秘蔵データあげるよ!」
「え、ほんとですか!?」
「貰わなくていい」
「頂きたいです!栄養補給に!!」
全力でよろしくお願いします!と訴えれば、若干鋭い眼差しをげんなりさせた智寿の視線と、面白がるようなカメラマン芝の視線が同時に降って来た。
「・・・・・・・・・」
物凄く何か言いたそうな智寿の肩を叩いて芝が親指を立てて茶化してくる。
「愛されてるねぇ、クールモデル!折角だから、ツーショット撮らせてよ」
「いやですよ。俺はともかく楓は一般人だし」
「奥さんは後姿だけ。せっかくの同窓会で、大人になった彼らってテーマなんだから、一枚くらいそれっぽいの撮らせてよ、皆にもお願いしてるし、ね?。奥さんもいいよね?プロに旦那とのツーショット撮って貰える機会なんて滅多にないよー。俺個人の依頼受けてないし」
あの頃のprideBeを支え続けた一流のカメラマンが自分たちを撮ってくれるチャンスなんて恐らくもう二度と来ないだろう。
迷う楓の表情を見下ろした智寿が、小さく息を吐いて手を握って来た。
「楓は横顔もなしで、完全に後姿だけにして。あと俺に先にデータチェックさせて」
「はいはい。りょうかーい!」
任されたと頷いた芝が早速カメラを構える。
「あの・・・私はどうしたら・・・・・・?っていうか、怒ってます?智寿さん」
「意外と度胸あるんだなって驚いてる」
楓は一緒に写真を撮られることは嫌がるだろうと踏んでいたようだ。
推しとする経験は、それがちょっと高めのハードルであっても不思議と挑めてしまうものなのだ。
普段はどれだけ地味で目立たない無個性なアラサー女子でも。
「誰かを好きになるって、無限のパワーになるんですよね、だってこんなの一回きりだし」
明かりが差し込む白い窓枠の手前で立ち止まった智寿が、レースのカーテンを引っぱって、それで楓の背中を包み込んだ。
向けられる視線が少しだけ遮られて、二人きりの空間に心臓が跳ねる。
「・・・・・・それって今の俺に向けてだよな?」
「・・・・・・私、一途なので、昔も今も、智寿さん一筋です」
「その割には距離の詰め方が慎重すぎないか?」
寝室は同じにしたものの、未だ夜の夫婦生活未経験の楓である。
待つと宣言した彼は、時々気まぐれにちょっかいを掛けてはくるけれど、噛みつかれたことは、まだない。
「・・・・・・うっ・・・慎重に・・・・・・色々と計ってるんですよ・・・間違えないように」
「間違えてもいいのに、夫婦なんだから」
「・・・・・・夫婦だからダメなんです」
分からんといった風に首を傾げた智寿が、ひょいと顔を近づけてくる。
瞬きの瞬間に額に唇が触れた。
誰かが吹いた口笛の音が遠くで聞こえる。
「夫婦だから、いいんだよ」
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