第30話 真珠-1

「・・・・・・」


神妙な面持ちで部屋の片隅からこちらを伺う楓に向かってやんわりと手招きする。


「どれだけ見ても部屋の間取りは変わらないけどな?」


「あ、はい、そうですね。わかってます・・・」


「で、このまま朝まで過ごすつもりじゃないよな?」


そのまさかだったらどうしよう、と思いながら、もう一度こっち来いと手招きすれば。


「あの、いま私の中に今日から始まる新生活を落とし込んでいる最中なので・・・」


物凄く真剣に言い返されて拍子抜けした。


昔自分のファンだった女性と結婚すると、こういう現実が起こり得るのだろうか?


身近に似た事例が見当たらないから分からない。


すでにモデル業をやめて10年以上経っているし、すっかり一般人に戻ったつもりの智寿である。


モデルをしていた頃も、自分が業界人という印象は持っていなかった。


だから、こうも仰々しくされる理由が本当に分からない。


小遣い稼ぎで初めて勧められるまま続けていたモデル業を、真剣に受け止めて見守ってくれていたことには感謝しかない。


応援してくれてありがとう。


ほんとうにただただこの一言に尽きる。


が、もうすでに今の智寿は、モデルでも何でもない。


逃げ出したお見合い相手を必死になって捕まえて結婚を承諾させたちょっと情けないただの男である。


カメラの前に立っていた頃は、身長と体格の良さを褒められることが多かったが、モデルを辞めた後は、鋭い目元と合わせてただの威圧感しか与えない。


無意識に続けていた筋トレのおかげであの頃より逞しさが増えた身体は、もうモデル体型とは言い難い。


こんな現在の自分でも受け入れて貰えるのだろうかと、伸ばした手を、彼女は拒まず、握り返してくれた。


それが、どれくらい奇跡的なことだったかは、筆舌に尽くしがたい。


これまでのお見合いの失敗を踏まえて、彼女の気が変わらないうちに早急に婚約を整えて、挙式披露宴は不要、地味婚しか認めないという彼女の意向に賛成して、無事に今週入籍を果たした。


長年一人暮らしを続けていた独身の男女が、新生活を始めるとなると引越し作業にはやはり時間がかかる。


お互いの家から持ち寄るもの、新調するものを精査するのに一番時間がかかって、結局最初の出会いから四か月目にようやく同居がスタートした。


その間には、楓が加賀谷の親族についての見聞きした情報を真に受けた楓が怖気づいたり、親族の顔合わせがあったり、白物家電の買い替えなんかもあって、なかなかハードな数か月だった。


智寿にとっては名前こそ古いが、至って普通のホテル業だという認識も、楓にとっては毎年老舗旅館の人気番付に入ってくる星付きホテルの苗字を貰うことは相当なハードルだったらしい。


清匡のところのように、幼なじみ婚だったらこの辺りのハードルはもっと低かったのだろう。


楓が最初に好きになったのは、若かりし頃のモデルの寿で、そして今はセキュリティ会社に勤めるサラリーマンの加賀谷智寿を好きになったのだと納得してもらって、加賀谷は関係ないと何度も伝えて、どうにかここまで来た。


ここまでずいぶん待たされたのだ。


こんなに一人の女性をベッドに招くのに苦労したことはなかった。


打算ありきで近づいてくる女性を相手にする事の方が多かったからだ。


加賀谷の名前欲しさに寄って来てくれる方が、扱いやすくて逆に良かった。


そういう相手ばかり選んで来た代償を、いまここで一気に払っている気がする。


「あと何分待てばいい?」


「それは私の心に訊いてくださいよ!」


ベッドルームの入り口で借りてきた猫のように動かない彼女は、最初寝室は別にしましょうと宣言してきた。


理由を尋ねれば、心臓に悪いから、という摩訶不思議な返答が返って来てさすがにこれには頭を抱えた。


お前俺の事好きじゃないのかよ、とぼやいた智寿に、それとこれとは別問題です、と真顔で切り返した楓は、推しと同じベッドに入ることがどれだけ心的負担を与えるのかを懇々と語って聞かせてきた。


当然、話の半分も理解できなかったが。


好きな相手と結婚したのだから、一緒に居たいし、触れていたいし、ぬくもりを感じながら眠りたい。


そのために夫婦になったのだ。


夫して至極まっとうな言い分を口にした智寿は、これでもう完全に降参させられると思っていたのだ。


けれどそれは甘い考えだったのだ。


『ゆっくり奥さんにして貰えると、物凄く有難いです』


ここまで駆け足で楓を急かしてきた自覚があるだけに、彼女のあの砂糖が擦れ合うような囁き声でお願いされて、否と首を振れるわけがなかった。


楓の思春期は、すべてモデルだった自分を推すために費やされ、リアルな恋愛経験は皆無。


それでも最高に幸せな青春を送らせてもらいました、と朗らかに笑った彼女を前にした時の、あの何とも言えないしょっぱい気持ち。


自分が小遣い稼ぎに費やした4年弱を、楓は、自分を追いかけ続けるためだけに費やしていたのだ。


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