第31話 真珠-2

あの甘ったるい声を聞いてしまって、彼女に対するいろんな感情を自覚した後で受けた告白に、言葉に出来ない様々な欲は一旦引いて凪いでいった。


自分が一時の熱情に駆られて簡単に手を出して良い相手ではないと悟ったのだ。


思い出補整が掛かったあの頃の自分の印象がプラスに作用しているとはいえ、もう何年も経っているし、何より立場が違う。


幻滅されるようなことはしたくないし、彼女から拒絶されるようなこともしたくない。


自分でも信じられないくらい慎重に距離を詰めて、楓の中にある安全圏を必死に探った。


結果、最初のキスは盛大に避けられて、死にそうだから無理、と喜んでいいのか悲しんでいいのかよくわからない悲鳴が聞こえてきて、こちらがなにかアクションをすると、まずは逃げたくなるのかと理解してからは、先に逃げ道を塞ぐことを覚えた。


嫌われていないことを確認すると、この現実を受け入れられないと言われた。


恋愛未経験の女子が、自分が憧れた相手に迫られたらそういう反応になるらしい。


同じ人間で、対等な立場で、智寿は楓を妻に選んだし、そうであって欲しいと望んでその手を取った。


いまは温度感に差があっても、一緒に暮らして、智寿の内面を知ればもっと自分を身近に感じて貰えるだろうと思ったし、楓のことももっと知りたいと思っている。


相互理解が夫婦生活の第一歩なのだ。


だから、こうして大きなベッドの真ん中で大人しく妻が自分からやって来るのを待っている。


焦れそうになりながら。


「これでも結構なスローペースだと思うけど?」


今日は行儀よく控えめなキスしかしていないし、抱きしめるのも純粋なハグだけ。


唇を触れ合わせただけで、息を止めてしまう彼女にその先を教え込むのはなかなかに骨が折れる。


それらの忍耐も含めて新婚生活の醍醐味だと割り切っているのだ。


一度も強引な行動に出ない健全な成人男子を褒め称えて欲しいところである。


腕に閉じ込めたときに感じる柔らかい胸のふくらみも、頼りない腰のラインも、名前を呼ぶ甘ったるい声も。


もっと味わい尽くしてしまいたいのに。


「言いましたよね!?私、ほんとに経験ないんですから!」


彼女がこうして処女アピールしてくるのはもう何度目のことだろう。


変なところで保身センサーが正しく機能する彼女は、こちらがそういう気分になると敏感に反応するのだ。


だから、酔った勢いでとか、雰囲気に流されて、という手が全く通用しない。


警戒心が強いのは夫としては安心だが、そこに自分を含められるのは正直困る。


俺にだけはガバガバのセキュリティで居て欲しいのが、土台無理な話だろう。


「俺を好きで居てくれて、清らかなままでいてくれてありがとう」


「うっ・・・」


楓の好きなお顔と、意図的に柔らかくした声で告げると、びくっと彼女が肩を跳ねさせた。


こんなに敏感に反応してくれるのに、どうして隣で眠らせて貰えないのか。


「これからは、俺が責任もって楓をもっと幸せにする」


精神的にも、肉体的にも。


「あ、ありがたいですけど、今はダメ!」


真っ赤になった楓が両方の耳を押さえて誘惑しないで、と叫ぶ。


「いま誘惑しないでいつ誘惑するんだよ」


楓を待っていたら間違いなく夜が明けてしまう。


触れないにしても、せめて上掛けでくるみこむところまでは完遂したっていいだろう。


クレームは後で聞こうと、開き直ってベッドから降りる。


ドアに縋りつくようにこちらを見つめる楓の腕をつかんで抱き寄せた。


「これ以上そこに居たら湯冷めする」


湯上りの残り香を確かめながらあやすように背中を撫でれば、楓が迷うように腕を引っ掻いてきた。


躊躇う指先をからめとって、冷えてきた指先に齧りついた。


「きゃあ!」


「俺、今日するって言ってないよ?」


「っ!!」


「ゆっくりって言ったの楓だろ?新婚初日が初夜って法律はない」


「・・・・・・・・・そうなんですか?」


「夫婦の数だけ夫婦生活があるんだから、お手本を探す必要は無いだろ」


「・・・・・・・・・私、寝相悪いかも」


「蹴られないように気を付けるよ」


「変な寝言言うかも」


「怖い夢を見てたら起こしてやる」


「・・・・・・・・・私、絶対寝顔可愛くないです」


「それはないから、心配するな」


もういいな、と彼女の腰に腕を回して抱き上げて、数歩で元居たベッドに戻る。


腰を下ろしたベッドの上で、膝に抱き上げたままの彼女の不安そうな眦にキスを一つ。


引き寄せた上掛けで彼女をくるんでやってから、そっと隣に下ろした。


先にベッドの真ん中に戻って、ぽんぽんと隣のシーツを叩く。


「楓。心配事がなくなったらおいで」


小さい子供に言い含めるように伝えれば、瞠目した彼女が膝歩きで腕の中に納まった。





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