第32話 黄紫水晶

新婚生活が始まってから、智寿が朝起きて真っ先にすることは、妻の所在確認だ。


セキュリティーのアラートがスマホに届くように設定してあるので、バイブ機能の振動ですぐに目が覚めるようになって、元から浅かった眠りがさらに浅くなった。


レガロマーレのセキュリティールームに勤めるようになった当初は、一日2時間睡眠がざらだったこともある。


もうすぐ三十代半ばに差し掛かろうとする年齢を思えば、そろそろ色んな無理が利かなくなるのだろうが、この二週間は別の意味で睡眠不足に陥っていた。


楓のペースに合わせて夫婦になる、と格好つけて鷹揚に承ったせいで、自分で自分の首を絞める羽目になったのだ。


戸籍を一緒にした新妻が、真横でスヤスヤと眠っているのを静観し続ける日々は、色々と身体に悪い。


彼女も緊張してなかなか眠れずに、くすぐったい笑みを交わしながら囁き声でおやすみを言い合ったのは最初の夜だけ。


楓がそのまま寝付けずにいたならば、キスのその先を少しだけ経験して貰おうと思っていたのだが、新調したマットレスの抜群の安眠効果に、二日目から彼女はあっさりと夢の世界に旅立つようになった。


新居に持ち込んだ荷物の片づけもあったし、続いている繁忙期の疲れもあるのだろう。


穏やかな寝息が聞こえて来たことに最初はホッとして、これなら寝室を分ける必要はなさそうだ、と嬉しくなった。


けれど、二度三度と寝返りを打った彼女が、無防備に柔らかい胸を押し付けてきたり、足を絡ませてくると、当然こちらはその気になるわけで。


熟睡中の妻の身体をひっぺがすわけにもいかずに、ひたすら堪えて明け方まで過ごして、二日目からは寝入った楓の身体に触れてしまう前にベッドを抜け出すようになった。


ちょっと視線を下げれば、緩んだパジャマの襟元から豊満な胸の谷間がお目見えするのだ。


スタイルで彼女を選んだわけでは決してないが、見てしまったら意識するし、意識すれば触れたくなる。


だってこれはもう俺のものだ。


撫でても揉んでもまさぐっても、齧っても舐めても構わないはずだ、と久しぶりに堪え切れない劣情を抱いた。


新婚数日でトイレに籠って自分で処理する羽目になるとは思わなかった。


ひとまず熱を吐き出して、仮眠くらいはとらなくてはさすがに仕事に差し支えると再びベッドにもぐりこんで、こちらに背中を向けて丸くなっている彼女の寝顔をもう一度確かめて、数時間後に朝が来る。


ここ最近ずっとそんなことの繰り返しだ。


だってまさか彼女が、恋愛未経験で自分に嫁いで来るとは思わなかったから。


この先の進め方をどうすれば良いか分からない。


多分、抱きたい、と率直に伝えれば彼女は頷いてくれるだろう。


ただでさえ楓は智寿に弱いのだ。


押せば頷いてもらえる自信がある、が、その場合、彼女の気持ちを置き去りにすることになる。


一度経験したら恐怖心は消えるだろうが、果たして彼女が心からそれを望んでいない状態で、最後の一線を越えてしまってよいものか。


自分から手を伸ばして欲しいから、楓のペースに合わせると嘯いたのに、もうすでに意見を変えようとする自分の身勝手さに呆れ返る。


女子の初体験は、男のそれとは違ってかなり重要だろうし、結婚するまで処女だった楓の気持ちを蔑ろにしてはいけない。


いけないと分かっているけれど、滾る身体だけはどうしようもない。


新婚早々欠伸を繰り返す智寿に、同僚たちは、生温い笑みを浮かべて、奥さんをちゃんと寝かせてあげなきゃ、とからかってくるが、そういう意味で寝不足になれたらどれだけいいか。


これも幸せな悩みだと割り切って、アラームの前に目を覚ませば、真横で眠っていたはずの楓の姿が見えない。


嫌な予感が走って慌てて身を起こせば、足元で丸くなっている楓を見つけた。


頭まで上掛けにくるまっている彼女の様子を確かめようと、上掛けの端を捲れば。


「め、捲らないでっ」


もうすでに起きていたらしい楓の悲鳴にも似た叫び声が聞こえてきた。


「・・・・・・なんで」


「なんでって恥ずかしくて動揺して死にそうだからですよ!」


それはもう少し別の朝に聞きたいセリフである。


「・・・・・・俺らまだ何もしてないけど・・・」


本当に隣で眠っただけで、指一本触れていない新妻がすでに死にそうとか、どういう状況だこれ。


寝起きの掠れ声でげんなりと返せば。


「隣で智寿さんが寝てるっていう事実がもうちょっと無理なんですっ」


「だからってわざわざ足元に逃げなくても・・・」


これでは自分が嫌われたように思えてしまう。


「だって寝顔見てたら私・・・・・・うっかり襲っちゃいそうで!!!」


新妻から襲って貰えるなら、むしろ喜んでお願いしたくらいなのに。


「・・・・・・処女のくせになに言ってんだ」


ちゃんと楓もそれなりに意識して一夜を明かしてくれたらしいことが分かって、頬が緩んだ。


これは半歩どころか一歩前進ではないだろうか。


「だってっ!」


「俺はいつでも襲ってくれていいんだけどな」


するりと本音を零して、上掛けの隙間から覗く頭にキスを落としたら、楓がひえっと寝起きに似つかわしくない叫び声を上げた。



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