第21話 翠玉-1
「三峯楓様ですね?お待ちしておりました」
ホテルの受付ロビーからの内線電話の三分後に、役員フロアに到着したエレベーターから降り立った女性を確かめて、役員フロアの秘書、鶴見は丁寧に頭を下げた。
めったなことではセキュリティールームから出ない智寿から、ここで婚約者を待機させると連絡が入ったのは今朝のこと。
成人済みの加賀谷一族最後の独身男性もこれで売約済みというわけだ。
ついこの間まで全く女の気配が無かったクールな狼の心を射止めたのは、あの日彼が役員フロアまで抱えて運んできた女性だった。
「はい・・・三峯です・・・」
役員に呼ばれない限り足を踏み入れない高層階のフロアに険しい表情で現れた智寿は、腕にパーティードレス姿の女性を抱えていた。
貧血でも起こしたのだろうかと視線を腕の中に向ければ、涙で崩れた化粧が彼女の頬を汚していて、嫌な予感を覚えた直後、空いている応接は?と短く尋ねられて、手身近な一部屋のドアを無言を開けると彼は迷うことなく彼女を中へと運んだ。
ただの具合の悪いお客様ではない。
彼は人目を避けたくて彼女をこの場所まで運んできたのだ。
何かトラブルがあったのなら、同性の自分が側に居るほうが有利に働くこともある。
フォローを申し出ようとした鶴見は、彼の背中がそれを拒絶している事に気づいた。
内輪揉めにしては見覚えの無さすぎる女性だし、智寿の女性遍歴はモデル時代がピークでそれ以降はさっぱりだ。
だとしたら、昔の知り合いか、それとも。
様々な憶測を抱きつつ大人しく受付に戻った鶴見の元に智寿がやって来たのはその10分ほど後のことだった。
依頼された内容は至極簡単なことで、それを口にする智寿の表情がやけに柔らかかったことをよく覚えている。
緊張した面持ちで頭を下げた楓が、鶴見の顔を見て、あ、と何かを思い出したように申し訳なさそうな表情になった。
「あのっ・・・・・・先日はストッキングありがとうございました。お礼もしないまま失礼してしまって・・・本当にすみません・・・お金お支払い・・・」
「いえ、必要ございませんよ。加賀谷からの指示に従っただけですので。ご挨拶が遅れまして申し訳ございません。役員フロアの秘書を務めております鶴見と申します」
「鶴見さん、これからよろしくお願いします。で、でもあんな高級品タダで頂くわけには・・・」
量販店で売っている3足セットのストッキングとは一線を画した、ホテルのブティックフロアのランジェリーショップで用意したブランド物のそれは、ちょっと庶民には手が出しづらい価格帯のものだった。
が、大至急新しいストッキングを、という指示と共に決済機能付きの社員カードを渡されたので迷うことなく上質な一足を選んだ。
というか、ホテルの中ですぐに用意できるストッキングは、従業員向けのものか、宿泊客向けのもののどちらかしかない。
「お役に立てて良かったと加賀谷は安堵しておりましたので、ご安心ください」
「すみません・・・」
今日は仕事帰りにこちらに立ち寄ったようで、オフィスカジュアルの代名詞のような、グレーのパンツに裾がフレアになったカットソーと紺のジャケットスタイルの彼女はベテランの会社員という印象だ。
なるほど、こういう落ちついたタイプが好みだったのか。
それなら、これまでお見合いが全敗だったのも頷ける。
年齢と共に落ち着きと鋭さを増していった目元は、どうしても若い女性からは敬遠されやすい。
口下手な彼は、長年パソコン相手の仕事に就いていたせいもあってどちらかといえば表情も乏しいほうだ。
端的に話す癖のせいかきついイメージを与えがちな彼の声が、信じられないくらい優しくなったのは、彼女をこのフロアに連れて来た後から。
凍てついていた大地が急に芽吹きだすように、温度感のある声音で言葉を紡ぐようになった彼は、急に大人の色気を醸し出して来た。
意中の女性を口説くために。
今ではすっかり婚約者に夢中で、あまり動かない表情筋を緩ませながらホテルの中を連れ歩く姿が何度も目撃されている。
ああいうのをクーデレというらしい。
これといって特徴の無い平均的な容姿の彼女のどこが彼の心を揺さぶったのだろう。
歴代のお見合い相手を知っている鶴見は、それこそ一流企業のご令嬢も、代議士の愛娘も、将来有望なバリキャリも見てきた。
どれもそれぞれに魅力があって、花嫁の素質を十分に兼ね備えていたように思う。
が、彼女たちでは駄目だったのだ。
どんなに頑張っても、智寿の表情を和らげることは出来なかったのだ。
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