第28話 碧玉-1
「はい。確かにお預かりしました。それでは、書類確認の上不備等ございましたら、開庁時間以降にご連絡させていただきます」
にこにこと愛想のよい笑みを浮かべる市役所の職員に、よろしくお願いします、ともう一度頭を下げて、市民課を後にする。
思っていたよりもあっさりと婚姻届は受理されてしまった。
書き損じしないようにと気を張っていた数十分前のほうが、ずっと緊張していた気がする。
日取りがいいから、という理由で、平日の夜、仕事が終わった後で婚姻届を提出する事に決めて、やっと少しだけ通い慣れたレガロマーレの応接室で、智寿と二人署名を行い、彼の従弟だという清匡夫妻に証人欄に記入をお願いして、無事に戸籍も三峯楓から、加賀谷楓に変更となった。
実感はさっぱり湧いていないが、さっき応接室で届いたばかりの結婚指輪を嵌めて貰ったので、それを確かめると、自分の新たな肩書きを思い出す。
一生誰かの奥さんと呼ばれる日なんて来ないはずだったのに。
志堂のデザイナーをわざわざレガロマーレに招いての婚約指輪の打ち合わせは、なんと三回にも渡った。
清匡いわく、新郎新婦の雰囲気を見て、似合うデザインを起こしてくれることで有名な人気デザイナーらしく、初回は簡単な打ち合わせと質疑応答で終わり、二回目に、彼女が楓をイメージした二種類の婚約指輪のデザインを見せてくれた。
一つは、智寿が依頼した王道の婚約指輪だ。
クッションカットのダイヤモンドと、サイドのラウンドカットのダイヤモンドがきらびやかなデザイン。
もう一つは、楓がお願いした、仕事場にもつけていけそうな、シンプルで控えめなデザインである。
こちらは繊細なラインが交差する流線型の華奢なデザインで、ラウンドカットの小粒のダイヤがぐるりと指輪全体と取り囲むデザインだ。
確かにこれなら結婚指輪と重ね付けして毎日つけられそうである。
デザインに大満足した楓に頷いた智寿は、貴石は必ず質の良いものを、という注文を追加した。
もちろんです、と承ったデザイナーは、結婚指輪に埋め込む貴石についての相談を智寿を行った後、実際の模型サンプルが出来上がり次第持ってくると言って会社に戻っていって、その数日後、本物と同じデザインの指輪の模型を手にレガロマーレを訪れた。
最近は3Dプリンタで実物が作れるので便利です、と微笑んだ彼女は、実際に指に嵌めてみて、イメージと合うか楓に確かめさせた後、注文内容に変更がない事を確認して、これから制作に入ると二人に伝えた。
特別注文扱いで納期を通常より早くさせることを約束した彼女に、先に結婚指輪だけでも届けさせて欲しい、と依頼した智寿の真意は、ここにあったのだ。
「婚姻届と結婚指輪は、大抵セットだろう」
楓の指に光る真新しい結婚指輪を嬉しそうに指で撫でた智寿が、鋭い眼差しを甘くして見つめてくる。
ここ最近の彼はいつもそうだ。
これから始まる新生活に向けて、少しでも楓との距離を縮めようと必死になってくれているらしい。
ファーストキスを交わしたあの日、交際経験がない、と暴露してからずっと。
恋のリングに上がったことも、誰かのハートを捕まえようとライバルとドッグファイトを繰り広げたこともない、誰にも見つけて貰えなかった自分が、人生全ての運を掛けて捕まえたのが、多分彼なんだろう。
「指が空っぽなままじゃ寂しいから、雑賀さんには無理を言った」
お揃いの指輪を嵌めた彼が、ちょっと強引すぎたかなと自嘲気味に小さく笑う。
「婚約指輪が届いたら、改めてお礼しましょうよ」
「そうだな・・・・・・あ、楓」
「はい?」
「さっきは指輪嵌めることに夢中で言い忘れてたんだけどな・・・」
清匡夫婦からのひやかしを受けながら、本番さながらに指輪交換を行ったので、楓のほうもテンパっていて、証人夫婦にはちゃんと挨拶出来ないまま婚姻届けを出しに来てしまった。
最初に清匡の妻である恵茉とはID交換をしたので、後でお礼のメッセージを送っておこう。
「なんでしょう?」
「結婚指輪の内側に、石入れて貰ったんだ」
「え!?」
全くの初耳である。
バゲットカットのダイヤがはめ込まれた結婚指輪は飾り模様の一切ないシンプルなものを選んだ。
これは自分のというよりも、智寿の指に似合うデザインを考えたら、そのデザインになったのだ。
彼の節ばった指をお揃いの指輪が彩っている事実にニヤニヤしてしまう。
一瞬指輪を外して、内側を確かめようかと思ったが、こんな往来で落としたら洒落にならないなと思ってやめた。
痕で家に帰ってからじっくり確かめて感動する事にする。
「そんなのお願い出来るんですか?」
「うん。出来る。夫婦円満のペリドットと、誠実な愛っていう意味があるサファイヤ、入れてもらったから」
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