第六話 純粋無垢なド変態

「わ、私はお兄ちゃんや深雪ちゃんが思っているような、清楚な女の子じゃありません……」


 きっと彼女なりに勇気を振り絞って発した言葉なのだろう。鈴音ちゃんの声はわずかに震えていた。そして、感情がこもっているのだろう。彼女の声は無意識のうちにボリュームが上がっている。


「わ、私はみんなが思っているような女の子じゃないです。私は……私はみんなが思っているよりも、もっといやらしい女なんですっ」


 彼女の一世一代の大告白。彼女自身はそのことを俺だけに伝えるつもりだったのだろう。だけど、無意識のうちに彼女の声は叫び声になっていた。特にいやらしい女という言葉は店内中に響きわたり、直後店内はしんと静まり返った。なにごとかと周りの常連らしき老人たちが一斉に鈴音ちゃんへと顔を向ける。


 これにはさすがの鈴音ちゃんも自分の声の大きさに気づいたようで、今まで見たことのないほどに顔を真っ赤にして、俯いてしまう。


「鈴音ちゃん、少し落ち着こうか」


 そう言うと彼女は小さく頷いた。そして、一度深呼吸をするとテーブルに身を乗り出すように俺に顔を近づけて、俺をじっと見つめた。そのせいで俺と鈴音ちゃんの顔が接近する。どうやら周りに声が聞こえないようひそひそ話がしたいようだ。


 なんだこの可愛い顔は……。


 鈴音ちゃんの顔は間近で見ても、どうしようもないくらいに可愛かった。シンメトリーというのだろうか、左右には全く同じ形の二重瞼、そしてツンと少しとがった鼻の先、そして艶やかな肌。何をとっても鈴音ちゃんの顔には荒というものがない。そんな彼女が恥ずかしそうに頬を朱色に染めているのだ。


 どうにかなってしまいそうだ……。


 意味もなく翔太の顔面をぶん殴りたくなった。


「と、とにかくその……私は家族が友人が思っているよりも……いやらしい女なんです……」


 と、吐息のようにそんな大胆なことを囁くものだから、思わず身震いしそうになる。事実は小説より奇なりなんていうが、少なくとも今の彼女は俺の小説の彼女よりも、数段艶めかしかった。


 が、そんな彼女の言葉に興奮している場合ではないのだ。彼女はいたって真剣にこのことを話している。ならば、俺もまた真剣に答えてやらなければならない。


「そ、そもそもだけど……どうして鈴音ちゃんは官能小説なんて読むようになったんだ?」


 それが俺にとって一番の不思議だった。こんなことを言うのもなんだが、俺の書いている作品は主に男性向けのライトノベルのアダルト版という表現が一番しっくりくる。それなのに、それとは無縁に思える鈴音ちゃんが読んでいたのが不思議で仕方がない。


「そ、それはその……」


 と、そこで一度治まりかけていた鈴音ちゃんの頬の紅潮が再発する。


「い、いや無理に答えなくてもいいよ。俺としては話したいことだけ話して、少し楽になってくれれば本望だし」


 だが、鈴音ちゃんは首を横に振る。


「いえ、今日は先輩に裸を晒すような気持ちでここに来ましたし、聞いてください」


 わかってる。わかってるよ。今のは比喩表現だってことぐらい。けど、そんなことをこんな息のかかりそうな距離で言われるんだぜ? 少なくとも脈が100を切ることはなさそうだ。


「わ、私が先輩の小説を読むようになったのはその……お兄ちゃんの影響です……」

「はあ?」


 その予想外の言葉に思わず目を見開く。


「半年ほど前にソファで眠ってるお兄ちゃんを起こそうと思ったら、たまたまお兄ちゃんのスマホに目がいって、そこに先輩のその……えっちな小説が表示されていて……」

「ま、マジか……」


 ふざけんなよっ!! って叫びたかった。ちょっと待て、衝撃がでかすぎる。なんなら鈴音ちゃんが俺の作品を読んでたことなんてどうでもよくなるほどの衝撃かもしれねえわ……。


 え? あいつ俺の小説読んでるの? いやいや引くわ……作者が俺であることを棚において悪いけど引くわ……。


 つまり、俺は翔太たち兄妹に隠れて、こっそり彼らをモデルにした官能小説を書いていたつもりだったが、結果的には二人とも俺の読者だったということだ。


「最初、お兄ちゃんがそんな小説を読んでいる事実を受け止められませんでした。もちろん物語として楽しんでいるだけだってことはわかっています。ですが、やっぱりショックで、しばらくお兄ちゃんが怖くなったのは事実です……」


 本当に翔太は物語として割り切っているのだろうか? その辺は甚だ怪しいが、変に話の腰を折るのも得策ではないので、黙っておくことにする。


「初めはなんでお兄ちゃんがそんな小説を読むのか理解できませんでした。ですが、その日から小説のことが頭から離れなくなってしまって、ある日、ベッドで横になっていたときに、出来心で小説のタイトルを検索してしまって、気がつくと……」


 そこで鈴音ちゃんは一度深呼吸をした。気がつくと彼女はテーブルに置いた手をギュッと力強く握りしめている。


「き、気がつくと私も夢中になってしまっていて……朝になってました……」


 俺はこの事実を喜ぶべきなのか悲観するべきなのか……。時間を忘れて夢中に読んでくれていたという喜びと、親友、およびその妹の性癖を捻じ曲げてしまったかもしれないという悲観の感情が腹の中でちゃんぽんしている。


「かける言葉はみつからないけど、すまん以外の言葉がみつからん……」

「先輩が謝る必要はありません。むしろ、私の本当の気持ちを引き出してくれて感謝したいぐらいです」

「ちょっと待て、ってことは鈴音ちゃんまさか……」


 一瞬嫌な予感がしたが、それを否定するように鈴音ちゃんが激しく首を横に振った。


「お、お兄ちゃんはあくまでお兄ちゃんです。大好きですが恋愛感情はありません」

「な、なんだ……よかった……」

「ですが、先輩の小説がきっかけで、私は自分が無意識のうちに感情を押さえつけていたことに気がついたんです。先輩の小説はとても刺激的です。先輩の小説を読んでいる間だけは、押さえつけていた感情を目いっぱい解放することができるんです」

「感謝の気持ちは嬉しいんだけど、俺は本当に喜んでもいいのか……」

「少なくとも私は感謝しています。先輩の描くハルカちゃんは私にそっくりです。私だって本当はハルカちゃんみたいな刺激的なことがしてみたい。だけど、それはできないので彼女に身代わりになってもらっているんです」


 と、そこまで話して鈴音ちゃんの表情が少し曇った。


「で、ですがこの気持ちは死ぬまで胸の中にしまっておくつもりでした。こんな気持ちが誰かにバレたら恥ずかしくて生きていけないです……」

「それなのに俺にバレてしまったってことか……」


 コクリと頷く。


「完全に私のケアレスミスです。前日の夜に読んでそのまま寝落ちしてしまって、小説の画面が開いたまま家を出てしまいました……」


 なるほど、ことの顛末が全てわかった。鈴音ちゃんは相当な覚悟で話してくれたのだろう。本当ならばこんなこと怖くて異性に話すことなんてできないはずだ。


「先輩はこんな私に幻滅しましたか?」


 鈴音ちゃんは恐る恐るそんなことを俺に尋ねた。


 もしかしたら不謹慎なのかもしれないけど、こんなにも俺の小説に感情をかき乱してくれる目の前の少女に感謝してもしきれない。本人は自分の感情を不純に思っているかもしれないけど、きっと彼女の心はどこまでも純粋だ。


「鈴音ちゃんはどこまでも淑女で清楚な女の子だと思ってたよ」


 そこまで言って鈴音ちゃんは驚いたように大きく目を見開く。きっと俺が幻滅していると思ったのだろう。だけど、話は最後まで聞いてほしい。


「だけど……だけど、きっと俺の想像は正しかったんだと思う」

「た、正しいですか? 私はこんなにも――」

「多分、鈴音ちゃんの感情は普通なんだと思う。俺だってそうだ。思春期の男女ってのはそういう生き物なんだよ。それをこんなにも真剣に悩む鈴音ちゃんはどこまでも純粋で無垢な女の子なんだと思う」


 だが翔太。お前だけは許さん。


 その言葉に鈴音ちゃんは言葉も返せずにじっと俺を見つめていた。きっと俺たちが見つめ合っていたのは数秒間のはずだ。だけどその時間は無限のように長く感じた。そして、不意に鈴音ちゃんはクスッと堪えきれなくなったように笑みをこぼした。


「鈴音ちゃん?」

「ごめんなさい。ですが、やっぱり先輩に全てを打ち明けて良かったと思います。もっと素直になってもいいんですね。それがわかっただけでも気持ちが楽になりました」


 正直なところそこまで的確なアドバイスのようなものが出来たとは思っていない。けど、鈴音ちゃんの笑顔は自然だった。そしてどこまでも穢れのない無垢な笑顔。


「私は臆病なので、この感情をお兄ちゃんや深雪ちゃんに打ち明ける勇気はありません。ですが、先輩にだけはもう隠しません。先輩の前ではそういう女の子だってことを隠しません」


 晴れやかな顔でそう言ってのける鈴音ちゃん。


 ん? ちょっと待て。彼女はさらっと、とんでもないことを言ってないか……。


「で、ですから先輩も……」


 が、そこで不意に鈴音ちゃんはまた頬を赤らめる。本当に信号機のようにころころ顔色が変わる女の子だ。


「せ、先輩もその……私のことはお気になさらず執筆を続けてください」


 と、そこで話題は俺の話になる。


「せ、先輩は私に気を遣って連載を止めておられるんですよね?」

「え? ま、まあ……さすがに鈴音ちゃんの気分を害してまで書くものじゃないしな……」


 鈴音ちゃんは首を横に振る。


「私は先輩の小説が大好きです。これからももっともっと先輩の小説が読みたいです」

「で、でもいいのか? ヒロインのモデルは鈴音ちゃんなんだぜ?」

「大丈夫です。私なんかでよければいくらでも使ってください。私なら小説の中でどれだけ汚していただいても結構です」

「お、おう……ありがとな……」


 そんなまっすぐな目でそんなことを言われてもなんて返せばいいかわからねえ……。


 彼女のそのまっすぐな目を見て俺は思った。もしかしたら、俺はとんでもない事態に足を踏み入れていないか?


 翔太よ。お前の妹、控えめに言ってド変態だぞ。


 きっと純粋無垢なド変態だ……。

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