第二十五話 金衛竜太郎は嘘をつかない
やだ。鈴音ちゃんったら本当にすごい。あんなに変態を追い求めて、なんならノーブラで登校してきた女の子を、一瞬にして変態を軽蔑する一般人に戻すなんて、もはや陰陽師もびっくりの悪霊退散ぶりだ。
お陰様で碧山月菜は変態を軽蔑するようになった。いや、正確に言えば俺を軽蔑するようになった。
彼女と一緒に裏山で変態会議をした翌日の休み時間。教室を移動するために教科書を抱えたまま廊下を歩いていた俺は、ふと向こうから歩いてくる碧山月菜の姿を見つけた。そんな彼女を眺めながら「あぁ……碧山がいるな……ブヒっ」と何気なく考えていた俺だったが、不意に彼女は俺の視線に気がつくと、こちらを見やった。彼女は何やら汚物でも見るような軽蔑に満ち溢れた目を俺に向けると、すたすたとこちらへと歩いてくる。
「金衛……そんないやらしい目で私のこと見ないで……」
開口一番、そんなことを言う彼女。
「いや、見てねえよ。目がいやらしいのはただの親父譲りだよ」
と、一応は否定してみるが、そんな言い訳では碧山は納得などしてくれないようで、相変わらず醜いブタでも見るような目を俺に向け続ける。
「本当に? 私の目には金衛が餌付けされたそうに私を見ていたようにしか見えなかったけど……」
「想像力豊かすぎんだろ……。俺は休み時間のたびに餌付けされなきゃ死ぬほど、変態をこじらしちゃいねえよ」
どうやら鈴音大先生の洗脳、いやアドバイスは効果てきめんだったようだ。本当にこの子が二年前に自分に告白してきたのかと、本気で疑わしくなるほどに、彼女の俺を見る目は変わっている。彼女はしばらく俺を訝しげな目で眺めると「ちょっとついてきて」と階段の方へと歩いていった。
彼女は階段を登ると施錠された屋上の扉の前までやってきた。彼女の目的はよくわからんがどうやら人目を気にしたようだ。
「こんなところに連れてきてどうするんだよ……」
彼女の行動の意図が全く理解できず首を傾げていると、彼女はポケットをまさぐって中から何かを取り出した。
彼女が取り出した物……それは飴玉だった。そして、飴玉からは紐が伸びている。
あれ? 俺、この飴見たことある……。
「鈴音さまが放課後にくださったの。これを使えば金衛がいかに醜い存在なのかよくわかるって」
「おい、いつから年下の女の子のことを様付けするようになったんだ」
「茶化さないで。そんなこと大した問題じゃない」
いや、きっと根本的な問題だと思う……と言ってやりたかったが、今の彼女にそんなことを言っても火に油を注ぐだけだ。
「鈴音さまは金衛は真正だって言ってた。だけど、私はもう一度だけ金衛のこと信じてみるね」
そう言って彼女は紐飴の紐の部分摘まむと、俺の顔の前に飴を垂らした。そんな彼女を見て俺は思う。
「お、お前、昨日まで変態になりたいって言ってたよな?」
「あ、あれはその……作品に行き詰って少し変になってただけ。鈴音さまがおっしゃってた通り、私は綺麗でえっちな作品を書いてるの。金衛と一緒にしないで」
いや、ホント鈴音さま凄いっすわ……。昨日と言ってたことが180度ひっくり返っている。
彼女はしばらく頬を真っ赤にして俺のことを見つめていた。その瞳からはわずかに期待も感じられた。俺が本当は変態ではないという期待。が、彼女は不意に再び俺を蔑むような目で見やると口を開いた。
「こ、この……ブタっ……」
ぬおっ!?
な、なんだこの感覚……彼女の口にしたその言葉に俺の心の中の何かが揺れた。
彼女は俺に期待をしている。きっと二年前の彼女は俺のことを好きだった。彼女はその好きだった相手が醜いブタなどではないと信じているのだ。そう信じているからこそ、あえて心を鬼にして俺を蔑んでいる。
「か、金衛……」
彼女はそう口にして、わずかに瞳に涙を浮かべる。だが、それでもその涙が零れ落ちてしまわないように目がしらに力を入れる。
「お、おい……ブタ……聞いてんのか? 聞こえてるなら返事をするっ‼︎」
「は、はいっ!!」
「ぶ、ブタならブタらしくブタの言葉を使って答えて」
「ブヒっ!!」
俺がそう答えた瞬間、彼女は驚愕するように目を見開いた。
「ち、違う。碧山っ」
だが、彼女は信じられないと言いたげに俺を見つめるだけだ。
なんだろう。彼女の期待を大きく裏切ったはずなのに、なんだか背中がぞくぞくしてきやがる。
悲しい……けど嬉しい……。
「ブタさん。よくできました。答えられたご褒美にこの飴玉を上げます。ブタならブタらしくブヒブヒ鳴きながら舐めなさい」
彼女は俺の前に垂らした飴玉をゆらゆらと揺らす。
これを舐めろということらしい。だが、さすがの俺もおいそれと彼女の言う通りに飴を舐めるわけにはいかない。固唾を飲みながら目の前で揺れる飴を眺める。
「どうしたの? 我慢してるの? 金衛は舐めたいんだよね? ブタ呼ばわりされながら飴玉を舐めたいんだよね? 我慢しなくてもいいんだよ? 私しかいないんだし、ブヒブヒ言いながら飴玉を舐めても……」
「お、おい碧山……やめろ……」
「やめないよ。私は心の底から金衛を軽蔑するまでやめない。私ね、本気で金衛のこと好きだったんだよ? もしも金衛がほんの少しでもまともでいてくれたら、また金衛のことすきになっちゃうかもしれない。だから、私は金衛がちゃんと醜い変態ブタさんだって納得するまでやめないよ……」
金治の瞳はどこまでも真剣だ。
きっと彼女の胸は張り裂けそうなはずだ。だけど、俺が本当に変態なのかどうかを確かめなければ、気持ちの整理ができないのも事実なのだ。
だから、彼女はやめない。俺が真正なのかどうか確かめるまでは止めない。
飴玉を眺める俺は悶え苦しんでいた。
おい竜太郎。お前は本当にそれでいいのか? お前は自分のことを好きでいてくれた女の子の期待を裏切ってしまってもいいのか? 確かにお前は時折道を踏み外す。だけど決して真正なんかじゃないはずだ。俺はこの愉快な仲間たちの中では一番真っ当であると自負していたはずだ。
だったらわかるよな?
こんなにも苦しみながら、それでいて俺に一縷の望みをかけてくれている彼女を裏切るような真似を本気でするつもりなのか?
「ブタ……聞こえてるの?」
「…………」
「金衛……私は金衛のホントを理解するまであきらめないよ……」
「ぶ……はぁ……ぶ……はぁ……」
頭に血が上っているのがわかった。俺は喉元まで出かかったその言葉を抑えて息を荒げる。
「ほらほら、無理なんてしなくてもいいんだよ? だって金衛はブタなんだし、ブタならブタらしく私の前に跪いてブーブー鳴いてよ」
くそぉ……さりげなく膝まづくという条件を増やしてきやがった。
「ぶ……はぁ……ぶ……はぁ……」
それでもブヒブヒ鳴きたい欲を抑えて碧山を睨む俺。そんな俺を碧山も真剣に見つめていた。
しのぎを削り合う俺と碧山。階段には二人の荒い息だけが静かに響いている。
「か、金衛……早く素直になって……」
「俺はブタなんかじゃ……」
「本当にブタじゃないの? だったら、私は本気でまた金衛のことを好きになるよ」
それははったりではない。彼女の真剣なまなざしがそう言っていた。
そんな彼女に俺の心が再び揺れる。
俺は本当に真正じゃないのか? もしもこんな屈辱を味わってなお、それが俺の喜びなのだとしたら、俺はおそらく真正だ。そして、もしも俺が本当に真正なのだとしたら、彼女は俺を軽蔑するだろう。逆に俺がここで彼女の誘惑に動じなかったとしたら、俺にもまだ最低限の理性があるということになる。
だけど思うのだ。俺は今、必死に堪えているのだ。確かにまだ碧山の誘惑に堕ちてはいない。だけど、俺の心の声はそうではないかもしれない。
俺は彼女からブタ扱いをされて嫌悪感を抱いているのだろうか?
いや違う。悔しいけれど俺の心はこんなにも激しく揺れている。
だとしたら俺がここで彼女の誘惑に耐え切ることは、自分の気持ちに背を向け、それでいて俺のことを好きになると言ってくれている彼女の気持ちに嘘をついていることになるんじゃないのかって。
俺はさっきからいったい何を言っているんだ?
よくわからないが、こんなにも真剣に俺と相対してくれている彼女の気持ちを裏切るべきではないはずだ。
だとしたら俺が守るべきプライドは彼女の誘惑に耐えることなのだろうか?
それとも自分の気持ちに、そして碧山の気持ちに嘘を吐くことなのだろうか?
そこで気がついた。
俺は守るべきプライドを間違えているということに。
「碧山、聞いてもいいか?」
「なに?」
「さっきの言葉は本当なのか?」
「さっきの言葉ってなんのことかな?」
「言っただろ。もしも俺が真正じゃなかったら、お前は俺を好きになるのか?」
彼女は俺の質問に動揺した。が、すぐに俺を見つめ直すと「本当だよ。私は金衛のことをきっと好きになる」と答えた。
「だったら、俺も碧山の気持ちに嘘を吐くわけにはいかないな」
「そうだね。私は噓つきのことは好きにはならないよ」
その通りだ。そもそもやせ我慢になんて何の意味もない。俺はまっすぐな彼女の気持ちにまっすぐに応えてやらなければならないのだ。彼女が見たいのは俺のやせ我慢じゃない。
YESかNOかの二択なのだ。
だから俺は「わかった」と答えて一度瞳を閉じた。
「か、金衛?」
俺は何も答えない。一度ゆっくりと深呼吸をすると瞳を開いて彼女を再び見つめた。
そして。
「碧山、これが俺の答えだっ!!」
そう言うと、俺はその場に跪いて叫ぶ。
「ぶひいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいっ!!」
悪いな碧山。お前の期待を裏切ることになるかもしれないが、俺はお前に嘘を吐くのは嫌なんだ。
俺は跪いたままブヒブヒと鳴いて、碧山の垂らした飴玉にむしゃぶりついた。
俺の気持ちはこうだ。碧山よ。俺は女の子にブタ呼ばわりされて飴玉を垂らされたら、それを舐めずにはいられない。俺だってそんな自分に驚いているさ。だけど、少しでも心が躍っている時点で負けなんだよ。きっとお前が望んでいるのは碧山の誘惑に一切動じない俺だったはずだ。動じずにいられない時点で、どんだけ我慢をしてもそれは碧山に嘘を吐いたことになる。
俺は嘘を吐くわけにはいかないんだ。碧山が俺のことを好きになると本気で言ってくれたならば、俺は碧山の一番の作家仲間でありライバルであるお前の気持ちに、わずかだって嘘を吐くわけにはいかない。
「か、金衛……」
碧山は俺の名前を呼ぶだけで、そこから先の言葉が出てこないようだ。彼女は大きく目を見開いたまま飴にむしゃぶりつく俺を見つめていた。
その眼差し……嫌いじゃないぜ。
そんな中、
不意にパチパチと乾いた拍手が階段の踊り場に響いた。その音に俺と碧山は慌てて音のした方へと顔を向ける。
「先輩……それに碧山さん……」
そう言って俺たちに拍手を送るのは鈴音ちゃんだった。
鈴音ちゃんよ……どうでもいいけどその登場の仕方、完全に悪役だぞ?
どうやら彼女はここでの一部始終を見ていたようだ。
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