第三話 通知音

 実際のところ、どうして鈴音ちゃんが俺の部屋に来たのかはわからない。鈴音ちゃんが俺の官能小説を読んでいるなんて、普通に考えればあり得ないし、彼女の言う通り単に俺にクッキーの味見をして欲しかっただけかもしんないし。


 が、三人で折り畳みの机を囲みながらクッキーを頬張っている間、俺の緊張が緩むことは一切なかった。正直なところ、クッキーの味も全く感じなかった。もちろん、それは鈴音ちゃんのクッキーがマズいというわけじゃない。きっと美味いんだろうよ。少なくとも昨日の俺なら欠片一つ残さずに食っていたに違いない。


 が、


「…………」


 鈴音ちゃんは俺がクッキーを食っている間、ただ黙ったまま、それでいてちらちらと俺の表情を窺っていた。


「黙ってないで、感想ぐらい教えてあげれば?」


 と、そこで痺れを切らせた深雪が俺を睨む。


 そこで俺はハッとする。


「え? あ、ごめん。美味いよ。めちゃくちゃ美味い。ありがとな」


 と、とってつけたような賛辞を贈るが、鈴音ちゃんはそれでも満足したようにほっと胸を撫で下ろした。そして、わずかに笑みを浮かべると俺を見つめた。


「じゃあ、私たちはそろそろリビングに戻るね」


 深雪がそう言って立ち上がる。どうやら、俺の部屋に長居したくないらしい。鈴音ちゃんを促すようにドアへと歩いていく深雪だったが、鈴音ちゃんは「う、うん……」と答えはするもののなかなか立ち上がろうとはしない。


「鈴音ちゃん?」


 と、そこで不思議に思った深雪が首を傾げていると、彼女はエプロンのポケットから何かの包み紙を取り出した。


「実は、ク、クッキーと一緒に飲もうと思って紅茶を持ってきたんだ。すっかり忘れてたんだけど、一緒に飲まない? せ、先輩もよければどうですか? アールグレイっていう柑橘系の紅茶なんですが……」


 もしかしたら勘違いかもしれない。だけど、なんとなくだが鈴音ちゃんの言葉は、紅茶を飲みたいというよりは、もう少しこの部屋に留まっていたいと言っているように聞こえた。そう感じたのはどうやら深雪も一緒だったようで、一瞬、不思議そうに俺を目を合わせてから「じゃあせっかくだし貰おうかな。鈴音ちゃん、それ貸して。私が淹れてきてあげる」と笑みを浮かべて部屋を出ていった。


 かくして、俺と鈴音ちゃんは部屋に二人取り残されてしまったのだが……。


「…………」


 気まずい……。


 鈴音ちゃんはテーブルを挟んで向かい側で行儀よく正座していた。が、彼女もまた俺同様に気まずさを感じているようで、何やらそわそわした様子で落ち着きがない。そして、なぜか頬もわずかに紅潮させている。


 ここは年上である俺が何か話を振らなきゃまずいよな……。


 そう思った俺は、意を決して口を開く。


「そういえば――」

「ちょっと兄に――」


 が、最悪なことに俺と鈴音ちゃんは同時に声を出したせいで、お互いの言葉はかき消されてしまう。


「ご、ごめん、どうぞ」


 そう言って鈴音ちゃんに発言を譲ると、彼女は少し申し訳なさそうに口を開く。


「兄にペットの餌の写真を送らなければならないので、少しスマホを触りますね?」

「え? うん、全然大丈夫だよ。そういや翔太の奴、餌の名前がわからないとか言ってたもんな?」

「そ、そうなんです……」


 そう言うと、鈴音ちゃんはエプロンからスマホを取り出して、何かを入力し始めた。そんな彼女を眺めながら、俺は思う。

 やっぱりこんなに可愛くて可憐な女の子が官能小説なんて……。

 そんなことを考えていると、彼女はメッセージを入力し終えたのか、スマホをポケットに入れた。


 その直後だった。


 ♪ピロリロリン


 スマホの通知音が部屋に響いた。鳴ったのは俺のスマホだ。


 なんだ……この絶妙すぎるタイミングは……。鈴音ちゃんがスマホをポケットに戻した瞬間、俺のスマホの通知が鳴る。


 が、俺はあえてスマホの通知を無視することにした……のだが。


「私のことは気になさらなくても大丈夫ですよ……」


 鈴音ちゃんは小さく呟いた。そこで俺は気がついた。いつの間にか彼女の頬が真っ赤に染まっていることに。そして、膝の上に置いた手がぷるぷると震えている。


「スマホ、確認しなくても大丈夫ですか?」


 鈴音ちゃんは手を震わせながら俺にそう尋ねた。何故だ? 彼女の瞳にはわずかに涙が浮かんでいるように見えた。


「だ、大丈夫だよ。多分、ソシャゲか何かの通知だから」


 俺はそう言って誤魔化した。正直なところ、怖かったのだ。俺のスマホに『あなたの小説に感想が書かれました』と表示されているのが怖かった。すると、鈴音ちゃんは「そうですか……それならいいのですが……」と絞り出すようにそう呟いた。


 彼女は再びポケットからスマホを取り出す。そして、何かをポチポチと打ち込む。するとその直後、再び俺のスマホからあまりにもタイミングよく、♪ピロリロリンと通知音が鳴る。


「な、なんだよ……今日はやけに通知が多いな。そういや今日は大型アップデートの日だったっけな。あはははっ……」


 と、空虚な笑い声が室内に響く。が、鈴音ちゃんは何も答えずに俯いた。そして、彼女はまたスマホを取り出すと、何かを入力し始めた。


 そして……。


 ♪ピロリロリンと俺のスマホの通知音が鳴る。


「先輩……」


 と、そこで鈴音ちゃんは耐え切れなくなったように顔を上げると、瞳に涙を浮かべながら俺を見つめた。


「ど、どうかしたの?」

「やっぱり緊急の連絡かもしれませんし、確認したほうがいいんじゃないですか? 私のことはお気になさらなくても結構ですので」

「…………」


 それは明らかに鈴音ちゃんからのスマホを見ろという圧だった。もう言い逃れはできない。俺は恐る恐るスマホへと手を伸ばした。


「じゃ、じゃあお言葉に甘えて……」


 そう言ってスマホの画面に目を落した。そこには『あなたの小説に感想が書かれました』の文字。


 心臓が止まりそうだった。一度、鈴音ちゃんをチラ見してから俺は震える手で通知をタップする。


『薄々感づいてはいたのですが』


 一件目の感想にはそう書かれていた。そして二件目には『もしかしてですが』と書かれている。そして、三通目には『この小説を書いておられるこののん様は』の文字。


 感想はそこで終わっていた。が、直後またスマホから♪ピロリロリンとなり新たな感想。


『先輩なのですか?』


 画面にそう表示されていた。俺は思わず顔を上げる。すると、鈴音ちゃんは今にも泣きだしそうな顔で俺を見つめていた。そして、彼女のスマホが手から落ちた。


 もう疑いようがなかった。俺と鈴音ちゃんは目を合わせたまま、逸らすことも出来ないでいた。


「せ、先輩……」


 鈴音ちゃんが震える声で俺を呼ぶ。


「ど、どうした?」


 俺はぎこちない笑みを浮かべる。


「前から一つどうしても聞いておきたかったことがあるのですが……」


 鈴音ちゃんはそこまで言って、両手で胸を抑えた。


「先輩の小説に出てくるハルカちゃんって……」


「…………」


「わ、私のこと……ですか?」


 鈴音ちゃんはそう尋ねた。それはもう何をどう解釈しても誤解することのないほどにド直球な質問だった。やっぱりそうだったんだ。俺の小説にいつも感想を書いてくれていたのは学園のアイドルにして淑女である水無月鈴音だったんだ。


 そして、彼女はもう一つの真実にも気づいていた。


 俺の書いている官能小説。そのヒロインのモデルが目の前にいる水無月鈴音であることに。


「そ、それは……」


 そんなこと答えられるわけないじゃねえか……。目の前に美少女がいて、その美少女に俺の書いている官能小説のヒロインのモデルはきみだよ。だなんて口が裂けても言えるはずがない。だが、その沈黙は暗に彼女の問いを認めているも同然だった。


 だけど、こんな消極的な肯定は良くない。ここは男として潔く認めるしかない。それで彼女から軽蔑されたとしても、それは身から出た錆だ。


「俺の書いている小説のヒロインは……」


 そこまで言ったときだった。


「おにい……」


 ドアの方からそんな声がした。俺と鈴音ちゃんは慌てて声の方へと顔を向ける。


 そこにはティーポットの乗ったお盆を持った深雪が立っていた。

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