第二話 水無月鈴音という女の子
自宅に帰ってきた俺はリビングのソファで頭を抱えていた。
鈴音ちゃんが俺の官能小説を読んでいるなんてありえない。
だって官能小説だぞ? それも近親相姦兄妹を友人が寝取るという、なかなかハードな官能小説をあの鈴音ちゃんが読んでいるなんて、普通に考えてありえないだろ。
少なくとも俺の知っている鈴音ちゃんはそんなものを好んで読むような女の子ではない。
鈴音ちゃんは学園一の淑女で、隣を通り過ぎるだけで甘い香りが漂うような美しさと清潔感の極みにいるような女の子だ。そんな女の子が、どうして、こんな冴えない童貞である俺が書いた汚らわしい小説を読まなきゃなんない。
彼女にとって俺の小説なんてタイトルを聞くだけで、耳を塞ぎたくなるような低俗な小説に違いない。
そう考えると、やっぱり今朝のことは何かの勘違いだという気がしてきた。
そうだ。やっぱりそんなことありえない。
そう自分に言い聞かせていると、不意にリビングのドアが開いた。家に誰もいないと思い込んでいた俺は思わずビクついてしまい、持っていたスマホを床に落としてしまう。
ドアを見やると、そこには買い物袋を持った妹、
「お、おう妹よっ。帰っていたのか?」
そのあまりにもぎこちなく不自然な俺の態度に、深雪は不思議そうに首を傾げた。そして、不意に何かに気がついたように目を細めると、疑うように「じ……」と俺を見つめる。
「おにい、なんか怪しい顔してる……」
「怪しい顔? さて、なんのことやら」
「おにい、なんかえっちな目してたもん……」
「おやおや、両親から貰った大切な目をえっちな目呼ばわりとは心外だな」
「私は両親から貰った大切な目をえっちな目にした、おにいに怒ってるの」
「残念だな。このえっちな目は親父からの遺伝だぜ」
「うぅ……反論できない……」
どうやら、スマホでこっそりアダルトサイトを見ていたと疑っているらしい。
が、それは完全なる誤解だ。俺はアダルトサイトの閲覧者ではない。アダルトコンテンツの制作者だ。が、そんな弁解をすると、さらに妹から軽蔑の目で見られるのは必至なので、黙っておくことにした。
深雪はしばらく俺のことを汚い物でもみるような目で睨んでいたが、不意に「はぁ……」とため息をつくと、リビングへと入ってくる。そして「そのえっちな目で鈴音ちゃんのこと見たら怒るからね……」と何かを諦めたようにつぶやいてキッチンへと歩いていく。
鈴音ちゃん? あ、そういえば……。
と、そこで俺は、今日鈴音ちゃんが深雪からお菓子作りを教わるために我が家にやってくることを思い出す。そして、思い出すと同時にリビングにもう一人入ってきた。
鈴音ちゃんだ。鈴音ちゃんは深雪同様に買い物袋を手にぶら下げていた。彼女は俺の顔を見るなりわずかに微笑む。
可愛い……。
一瞬とはいえ、俺は学園のアイドル
「おにいっ!!」
が、そんな俺の心を見透かすように深雪が、鋭い視線でけん制してくる。
「先輩、今日はお邪魔しますね」
相変わらずの笑顔でそう言う鈴音ちゃんに俺は「あ、ああ、まあ自分の家だと思って使ってくれていいから」と、一家の主のような返事をしつつも確信する。
やっぱり今朝のことは何かの間違いだったんだ。
こんなに天使みたいな笑みを浮かべる彼女が俺の官能小説を読んでいるなんてありえない。やっぱり俺の見間違いだったんだ。そうに違いない。ってか、そうであってくれ。
と、そこで深雪が不意に俺の前までやってきた。
「ほらほら、今からこのリビングは男子禁制なの。おにいは部屋に帰った帰った」
と、深雪が俺を部屋に追い返そうとするので、俺は言われるがまま退散することにした。ソファから立ち上がり、リビングを出ようと鈴音ちゃんを横切ろうとした。
「先輩のぶんのクッキーも頑張って作りますね」
そこで鈴音ちゃんが俺を見上げてそう言った。
「俺のぶん?」
「先輩は甘いのはあまり好きではないですか?」
「いや、そういうことじゃなくて……いいのか俺なんかが食っても」
「はい、迷惑でなければ先輩にも味見してもらいたいです」
「ありがとう。じゃあ楽しみに待ってるよ」
そう答えると、少し不安な顔をしていた鈴音ちゃんは再び笑顔をとりもどして「はい」と小さく頷いた。
※ ※ ※
部屋に戻った俺は、昨日すでに書き終えていた官能小説の最新話を推敲することにした。一時間ほどかけて、細かいセリフの変更や誤字脱字の修正を終えるとそのまま投稿ボタンを押した。
液晶と睨めっこをしてすっかり目が疲れた俺は、そのまま机にもたれ掛かって目を閉じる。それからぼーっと五分ぐらい休んでいると、不意にスマホから♪ピロリロリンと通知音がなった。
ゆっくりと目を開けて、スマホに目を落すと、そこには『あなたの小説に感想が書かれました』の文字。俺は慌ててスマホを手に取って通知をタップする。
感想の早さに驚きつつも、批判的な感想にわずかにおびえながら読んでいく。
『こののん様へ。最新話、読ませていただきました。今回もとても面白く、それでいてとても刺激的でした。私自身、ハルカちゃんになったような気持ちになり、恥ずかしいですが少しだけ興奮しました。次の話にも期待していますね』
幸いなことに感想欄には好意的なコメントが書かれており、胸を撫で下ろす。やっぱり小説を書いていて、自作を褒められることほど嬉しいことはない。この喜びを忘れないうちに返信を書こうと、コメント欄へと画面をスクロールしようとした。
が、そこでその感想にまだ続きがあることに気がつく。
『追伸 実は今日、先生の作品を読んでいることを兄の親友にバレてしまったかもしれません。先生の作品は大好きですが、私がえっちな女の子だと男の子に思われるのは、やっぱり少し恥ずかしいです……』
その一文を読んだ瞬間、自分の顔から血の気が引いていくのがわかった。
ちょっと待て……その感想に心当たりがありすぎるぞ……。
感想を書いてくれたのは毎話、熱心に俺の作品に感想を書いてくれている常連の読者さんだ。その人がまず女の人だったことすら俺は今初めて知ったのだが、この際、そんなことはどうでもいい。
問題は彼女が兄の親友に官能小説を読んでいることがバレたという事実だ。
今朝、俺は鈴音ちゃんのスマホに俺の小説らしきものが表示されているのを偶然見てしまった。そして、鈴音ちゃんは親友の妹だ。
これを偶然と呼んでいいのだろうか? いや、インターネットは全世界に繋がっているのだ。広い世界の中でこの程度の偶然の一致はあり得るのかもしれない。だけど、ここまでの偶然ってそんなによくあることなのだろうか……。
ダメだ胸のざわめきが治まりそうにない。
いや、でもちょっと待て。鈴音ちゃんは今、俺の家のキッチンでお菓子作りに勤しんでいるはずだ。隣に深雪もいるのに、俺の作品を読んだうえでこんなに長い感想を書くことなんて可能なのだろうか?
そうだ。そんなのは不可能だ。だから、これはやっぱり偶然の一致だ。
そう自分に言い聞かせた。いや、言い聞かせないと平常心を保つことができなかったと言っても過言ではない。
俺は頭の中で『おちつけ竜太郎。おちつけ竜太郎』と唱えながら返信欄を開く。
『すず様へ』
そこまで書いて俺は今更ながらいつも感想を書いてくれているこの読者のアカウント名が『すず』であることに気がついた。
すず……すず……鈴音……。
いやいや偶然だ。そうに違いない。
震える手で返信を入力する。
『すず様へ さっそくのご感想ありがとうございます。すず様のご期待に応えられてよかったです。次話ではさらに展開がある予定ですので、ご期待ください』
ここまでは定型文のような返信だ。その文章の下に俺は『追伸』と入力する。
『確かにそれは恥ずかしいですね。今後は一人で読まれることをお勧めします』
そう入力して、返信ボタンをタップした。感想欄に新たに俺の返事が表示されるのを確認して、スマホを置く。
が、それから五分もしないうちにまた俺のスマホの通知音がなる。
『あなたの小説に感想が書かれました』
そう書かれていた。俺は恐る恐る通知ボタンをタップする。そして、そこに書かれた感想に愕然とする。
『こののん様へ さっそくのお返事ありがとうございます。実は今、その兄の友人の家にいます。ちょっと怖いですが、バレているかどうかそれとなく確認してきますね』
コンコン。
と、そこで誰かが俺の部屋をノックした。その不意打ちに、俺は思わず「うわっ!?」と椅子から滑り落ちそうになった。
「おにい、開けてもいい?」
と、ドアの向こう側から深雪の声がしたので、わずかにホッとして椅子に座りなおす。
「いいよ。勝手に開けろ」
そう答えると、ドアがゆっくりと開いた。そして、ドアの前に姿を現したのは深雪……ではなく鈴音ちゃんだった。
「す、鈴音ちゃん?」
俺の驚く顔に、鈴音ちゃんもまた少し驚いたように目を見開いた。そしてなぜだろうか? わずかに頬を紅潮させているように見えた。
「ど、どうかしたの?」
そう尋ねると鈴音ちゃんは「え、え~と……それは……」と少し困惑した様子で後ろ手に隠していた包み紙を、両手で胸に押し当てるように抱えた。
「鈴音ちゃんが、おにいにもクッキー食べて欲しいんだって。だから、味見してあげてほしいの」
と、そこで鈴音ちゃんの背中から深雪がひょっこりと顔を出した。
「ああ、そういえば……」
そう言えばさっき先輩のぶんも作るって言ってたっけ? 正直、今の俺には鈴音ちゃんのクッキーを心待ちにしている余裕はなく、すっかり忘れていた。
「入ってもいいですか?」
と、尋ねる彼女に「もちろん」と答えると鈴音ちゃんは部屋に入ってきた。彼女は制服の上にウサギのプリントされた自前のエプロンを付けていて、それがよく似合っている。
俺の知っている鈴音ちゃんだった。何も変わらないいつもの純粋無垢で清潔感に満ちた女の子。
だけど、彼女は俺の官能小説を読んでいる。それどころか、彼女の持っているそのクッキーを作りながらも、頭の中は官能小説のことで一杯なのかもしれない。そんなこと誰が想像できるだろうか?
俺の中で
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