第五話 はしたない女の子

「先週の日曜日なんて、あいつの買い物に一日中付き合わされてさ、夜にはレストランでディナーだぞ? あいつ多分、俺を彼氏か何かと勘違いしてるぞ……」


 はいはい、今日は鈴音ちゃんの彼氏気取りができたのが嬉しかったって話ね。


 しゅごーい、翔太くんったらあの鈴音ちゃんとデートをしたんだね。親友として心から羨ましいと思うよ。俺みたいな冴えない高校生には一生手の届かない領域だね。それが簡単にできる翔太くんはしゅごいんだね。俺なんて精々、鈴音ちゃんとデートする妄想をしてブヒブヒするのが限界だもんね。ブヒー!! ブヒー!!


 はぁ……。


 今日も今日とて、翔太の妹自慢を聞きながらの登校だ。


 一周回ってもはやこいつの妹自慢は清々しさすらある。だから、今日はこいつが最も喜ぶであろう反応をしてやることにした。もちろん、口には出さないけどな。


 と、この親友の自慢をせめて心の中で讃えてやっていた俺だが、実際のところはそんなことをしている場合じゃないぐらいに精神的に疲弊していた。


 この一週間、俺は官能小説が書けないでいた。


 もちろん、その原因は鈴音ちゃんが俺の小説を読んでいたこと、いや、それどころかその作品のモデルが鈴音ちゃんだということが本人にバレていたことだ。酷い言い方ではあるが、これまでは本人にバレていないことを良いことに、好き勝手書いていた。ときには読者の求める過激なことを作中の鈴音ちゃんにさせていたし、翔太との会話もよく拝借させていただいていた。


 まあ、もっとも過激な内容を一番求めていたのは、ニックネーム『すず』こと鈴音ちゃん本人だったのだが……鈴音ちゃんだって、少なくともあの日までは自分がモデルであると確信をもってはいなかったはずだ。その事実を知った今、きっと俺のことを軽蔑しているに違いない。その状態で俺が連載を進めるというのはもはやセクハラだ。現にあの日以来『すず』の音沙汰はない。


 あの日から、鈴音ちゃんとは会っていない。もちろん同じ高校に通っているのだからときには廊下ですれ違うこともあったが、鈴音ちゃんは俺と目が合うと羞恥に顔を真っ赤にして逃げるように立ち去ってしまうため、ろくな会話はしていない。


 そりゃそうなるのも当然だ。俺はきっと鈴音ちゃん自身、もっとも隠したかったであろう秘密を知ってしまったのだから。おそらく翔太だってこの秘密は知らないはずだ。


 延々と鈴音ちゃん自慢をする翔太をおいて、俺は悶々としながら歩いていた。


 と、そこへ。


「お兄ちゃんっ」


 そんな声が背後からした。その声を聞いた瞬間、俺にはその声の主が誰なのかを理解して顔から血の気が引く。振り返ると予想通り、そこには鈴音ちゃんの姿があった。


 鈴音ちゃんは朝の重い頭を一瞬にして軽くするようなさわやかな笑顔でこっちへと歩み寄ってくると、鞄から弁当箱を取り出した。


「お兄ちゃんってば、お弁当忘れてるよ……。せっかく早起きして作ったのに酷いよ……」


 そう言って鈴音ちゃんは兄である翔太に弁当箱を差し出した。もはや何万回と見た光景だ。初めのうちは単純に翔太が忘れているのだと思っていたが、ここまで続くと鈴音ちゃんに弁当を作らせていることを見せびらかすために、わざとやっているのだと確信する。


 ニヤつく翔太。ほんと、こいつは表情を隠すのが下手だ。


 翔太がわざとらしくニヤつきの隠せていない不愛想で弁当を受け取るのを横目に、俺は鈴音ちゃんを見やった。直後、鈴音ちゃんは俺の視線に気づいたようで一瞬、俺と目を合わせたが直後、頬を赤らめて俺から視線を逸らす。


「せ、先輩……おはようございます……」

「お、おう……おはよう」


 二人してぎこちなく挨拶を交わす。

 やべえ気まずい……。やっぱり、鈴音ちゃんはまだ尾を引いているようだった。俺と鈴音ちゃんはしばらく気まずい空気を共有しながら黙っていたが、翔太が「なにぼーっと突っ立ってんだよ。いくぞ?」と俺たちをおいて歩き出すので、鈴音ちゃんは「う、うん……」と答えて翔太の後ろをついていく。そして、俺もまたそんな鈴音ちゃんと一緒に歩き始める。


 先頭に翔太。そして、少し後ろに俺と鈴音ちゃんが並んで歩く。横を歩く鈴音ちゃんが気になってチラチラと視線を向けていると、彼女もまた俺にチラチラと視線を送っているようで、不意に目線が合いお互い恥ずかしくなって視線を逸らすというのが何度か続いた。


 が、特に会話が始まるわけでもなく、気まずい時間が続く。能天気に鼻歌を歌っている翔太とは対照的だ。


 やっぱり怒っているのだろうか? それとも軽蔑しているのだろうか?


 俺には鈴音ちゃんの心中を推し量ることはできなかった。


 ただ黙々と並んで歩いているだけ。と、そこで鈴音ちゃんがブレザーのポケットに手を入れた。そんな鈴音ちゃんをさりげなく見ていると、彼女はポケットから二つ折りになった小さな紙を取り出した。


 ん?


 と、不思議に思い眺めていると、鈴音ちゃんはそっと紙を持った手を俺の方へと伸ばしていく。


 そして。


 え?


 彼女はあろうことか俺のブレザーのポケットにその紙をねじ込んだ。その突然の行動に目を丸くしていると、鈴音ちゃんは小さく首を横に振って、視線だけを兄である翔太へと向けた。


 どうやら、何も言うなということらしい。


 少なくとも彼女は翔太にバレないように俺に何かを伝えたかったようだ。


「そういえば鈴音、今日の放課後は暇か?」


 と、そこで不意に翔太が後ろを振り返って鈴音ちゃんを見やった。鈴音ちゃんは少し驚いたように「ええ?」と目を見開く。


「なんだよお前、寝ぼけてんのか? 今日の放課後は暇かって聞いたんだよ」


 と、翔太が尋ねると彼女は「ご、ごめん……今日も深雪ちゃんと約束してるの……」と謝った。それを聞いた翔太は一瞬むっとした表情を浮かべたが、相手が深雪だということもあり「それならしょうがねえな……」と一応は納得した。



※ ※ ※



 放課後、俺は自宅から三駅も離れた月本駅というこじんまりとした駅にいた。改札を抜けると小さな商店街があり、その中に小さな喫茶店を見つける。


「あそこか……」


 店の名前は書かれてはいなかったが駅に一番近い喫茶店はあそこで間違いなさそうだ。俺は喫茶店へと足を進める。


 今朝ポケットにねじ込まれた紙の正体は鈴音ちゃんからの手紙だった。


『今日の放課後、お暇ですか? もしもお時間があるなら、月本駅前の喫茶店でお話ししたいことがあります』


 達筆ながらも少し丸みがあり、書いたのが女の子だとすぐにわかる文字だった。文字だけで可愛いと思わせるとはさすがだ。


 どうやら今朝、鈴音ちゃんが話していた深雪と遊ぶという話は翔太を欺くための嘘だったようだ。わざわざ月本駅を指定したのも、人目につかないための配慮だろう。きっと俺と二人で会うなんて翔太に言ったところで許してくれないはずだ。俺はカップルでもないのに束縛される鈴音ちゃんを不憫に思いながらも喫茶店のドアを開けた。


 カランコロンと来店を知らせる鈴の音が響いた。


 店内を見渡すと、カウンター席とテーブル席が並んでおり、昔ながらの喫茶店のテンプレのような光景だった。店内奥のテーブル席に見知った顔を見つける。


 鈴音ちゃんだ。彼女は俺に気がつくと、相変わらず少し恥ずかしそうに頬を染めると、小さく会釈した。


 いったい話って何だろう……。


 正直なところ俺には彼女が自分を呼びだした理由がまったくわからず、さっきから冷や汗が止まらない。


「ごめんね。待たせた?」


 と、彼女に尋ねて椅子に座ると、彼女は首を横に振った。


「いえ、私もさっき到着したところなので」


 そう言ってわずかに微笑む鈴音ちゃん。


 と、そこへこの店のマスターらしき初老の男がお冷を持って現れたので、ホットコーヒーを注文した。


「翔太に内緒で俺なんかと会って、怒られないの?」


 うちの高校に通う生徒には月本に住む人間もいる。まあ、だとしても誰もこんな小さな喫茶店には入ってこないだろうが、少し心配だ。


 そんな俺の質問に鈴音ちゃんは「えへへ……」と苦笑いを浮かべる。


「お兄ちゃんが知ったらきっと不機嫌になると思います。何せ、お兄ちゃんの誘いを断って先輩と会っているのですから……」


「ま、まあ、そうだよね……」


 露骨に不機嫌になる翔太の姿が容易に想像できた。


 マスターがお盆に餡蜜を乗せてやってきた。おそらく鈴音ちゃんが注文したものだろう。テーブルに餡蜜が置かれると鈴音ちゃんは「わぁ……」と、頬を緩める。


「美味そうだな」

「実は私、幼い頃この街に住んでいたんです。母親が時折、私をここに連れてきてくれて、この餡蜜を食べさせてくれたんです。それ以来この餡蜜が大好きで、今でも時々食べに来るんですよ」


 そう言うと鈴音ちゃんはスプーンで餡と白玉を救い上げて口へと運ぶ。


 そんな光景を眺めながら、自分も同じものを注文すればよかったと少し後悔する。が、そんな俺の気持ちが表情に出ていたのだろうか、鈴音ちゃんは不意にこちらを見やるとクスクスと笑った。


「先輩も一口、どうですか?」

「え? でも、それだと鈴音ちゃんの分が減っちゃうし……」

「羨ましそうに見つめられると、少し食べづらいです。それに先輩にもここの餡蜜の美味しさを知ってほしいので」

「それなら一口だけ貰おうかな……」


 俺がそう答えると、鈴音ちゃんは再びスプーンで餡と白玉をすくい、それを俺の口の前へと差し出した。

 え? もしかしてあ~んしてくれる感じなのか?

 その童貞男子には少し刺激の強すぎる、鈴音ちゃんの行動に動揺していると、彼女はそんな俺が可笑しかったのかまたクスクスと笑った。だが、スプーンを引っ込めようとはしない。


 どうやらやるしかない。


 わずかに背徳感を抱きながらも、意を決してスプーンを口に入れた。


 うむ、美味い……。


 口の中に広がる餡の甘さと、白玉のつるつるした触感が少し気温の高い今日にはちょうどいい。


 と、感想を述べたい俺だったが、鈴音ちゃんはなかなか俺の口からスプーンを抜いてくれない。


 鈴音ちゃんは相変わらずクスクスと笑いながら、指先でスプーンの柄を転がすと、俺の口の中でスプーンがくるりと一回転した。


 どうやら鈴音ちゃんのささやかな悪戯のようだ。現に彼女は少し困った表情の俺を見て楽しんでいるようだった。


 彼女の動かすスプーンの先が舌や奥歯に当たって、なんだか直接、鈴音ちゃんに指を入れられているような妙な錯覚に陥る。


 そんなことを数秒間、つづけたところで鈴音ちゃんはスプーンを引き抜いた。


 からかわれた俺は、そんな彼女を軽く睨むと鈴音ちゃんはわずかに笑みを浮かべながらも「ごめんなさい……」と謝った。


 なんというか、俺は彼女にそんな悪戯心があることに少し驚いていた。


 少なくとも兄や深雪と一緒にいる鈴音ちゃんはどこまでもお淑やかで、ふざけたりなんて決してしないような女の子のイメージだ。いや、今も十分お淑やかなのだが、ほんの少しだけ今日の鈴音ちゃんは、いつもよりも着飾っていない、素に近い状態なのだとなんとなく理解できた。


 鈴音ちゃんの引き抜いたスプーンには俺の唾液がわずかに付着していた。鈴音ちゃんが俺の口の中でコロコロ転がしたのだから当然だ。自分が悪くないことはわかっていても、少し恥ずかしい。が、鈴音ちゃんはとくに俺の唾液を気持ち悪がる様子もなく、餡蜜をすくって口へと運ぶ。


 そんな鈴音ちゃんの姿に、わずかに動揺していると、彼女は首を傾げる。


「どうかしましたか?」

「いや、なんでもない……」


 そう答えて一度、会話は途絶えた。一分ほど会話はなくなり、その間にマスターの運んできたコーヒーにミルクを落す。


「正直なところ、穴があったら入りたいぐらいに恥ずかしかったです……」


 と、不意に鈴音ちゃんが口を開く。


「え?」

「先輩の小説のことです……」

「あ、あぁ……」


 と、そこで俺は彼女の言葉を理解した。

 そりゃそうだ。恥ずかしいに決まっている官能小説を読んでいることがバレたのもそうだが、自分をモデルにした小説が全世界に公開されているのだから。もっとも読者の数はそこまで多くないけど……。


「ごめん……って言葉で許して貰えるとは思ってないけど……ごめん」


 だから、俺は素直に謝ることにした。謝ったうえで、このことは俺の心の中にしまって、いっそ小説は削除してしまうつもりだった。

 けど、俺の謝罪に鈴音ちゃんは首を傾げる。


「どうして謝るのですか?」

「いや、だってそれは……」


 そんなこと説明するまでもないと思っていた。


 けど……。


「私は別に怒っていませんよ。私はただ、先輩に秘密がバレてしまったことが恥ずかしかっただけです……先輩に軽蔑されることも怖かったですし……」

「軽蔑なんかしないよ」

「だけど、私はみんなが思っているようなお淑やかな女の子ではありませんよ?」

「だからって鈴音ちゃんのことを軽蔑なんてしないよ。むしろ俺はこんなにも自分の作品を読んでくれた読者に感謝したいぐらいだ」

「…………」


 と、そこで一度会話が途切れた。数秒間の沈黙ののち鈴音ちゃんは不意に口を開いた。


「本当の私のこと知ってくれませんか?」

「え?」


 不意に口にした鈴音ちゃんの言葉が理解できなかった。が、彼女の表情はいたって真剣だ。


「本当の私のこと、先輩には知っていて欲しいんです。お兄ちゃんも深雪ちゃんも知らない私のこと、先輩に全部話してもいいですか?」

「鈴音ちゃんのこと? いいの? 俺なんかに話しても」

「はい、先輩にしか話せません。だって私の心のカギを開いてくれたのは先生の小説なんですから」

「…………」


 そう言って鈴音ちゃんは話し始めた。

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