第29話 2020年3月13日(金)

 智草は九時に目が覚めた。普段はもっと早く起きるのだが、昨日は遅くまで寝付けなかった。目が覚めた瞬間にまた昨日の事を思い出し気分が舞い上がった。会話を思い出しながらもう一度吟味する。髪はストレート、イエス。白ニット、イエス。小柄、イエス。ニコニコ、イエス。弱っている時に優しい、イエス。ここまでは完璧だ。時々切れ出す、ノー。そんな事をした記憶はない。これは願望なのだろうか。昨日は現状を聞き出すだけのつもりだったが、返ってきた回答は予想外だった。条件はほぼ一致している。まさか人前でそんな事を言ってくるとは思わなかった。自分の反応を見ていたのだろうか? でもあの時は窓の外を見ていた。反応を待っているのだろうか? 考えがまとまらない。誰かに相談したかった。スマホに手を伸ばし布団の中から電話をかけた。

「おはよ」

 香澄はすぐに出た。

「おはよう、香澄ちゃん」

「どうしたの?」

「昨日の……」

 上手く言葉が続かなかった。

「香澄ちゃんも気付いてたよね?」

 香澄は何の事か即座に理解した。

「あれね。あいつ本気なのかな? って言うか公開かました事にちゃんと気付いてるのかな?」

「やっぱりあれってそうだよね?」

「私にはそう聞こえたけど」

 智草は布団の中で顔が火照るのを感じた。

「でも、何か違和感あったんだよね」

「え?」

「ほら、そういう事言う時って凄いドキドキするじゃない。平静でいられないって言うか、大変な事になりながら何とか言うものでしょ?」

「心臓破裂しそうになるよね」

「そうそう。そういうのが全く感じられなかったんだよね。次の授業は何だっけくらいの感じだったじゃない。まるで緊張感が無いんだよね。だから本気かどうか怪しい気がして」

「その場で適当に言っただけなのかな……?」

 智草の声が沈んだ。

「え、ちょっと。真に受けない方がいいって、チョロ過ぎるからやめなよ」

「昨日言われたからじゃないよ。多分ずっと私……」

「ちょい待ち、ちょい待ち。突然すぎてついて行けないんだけど」

「ねえ。日向くんに好みのタイプを聞いたら、答えに自分の特徴が返ってきたらどうする?」

「え、もうその場で抱きついてキスしちゃうかも」

「ははは、嘘。そんな勇気無いでしょ」

「うん。多分、本当かどうか疑っちゃうと思う」

「でしょ」

「人の心が分かればもっと簡単になるのにね」

「平安時代から人の悩みは変わらないね」


 智草が香澄と話している数フロア下で葵は布団に寝転んで携帯をいじっていた。

『あのさ、ちょっと聞いていい?』

『何?』

『柊司のお姉さんって彼氏いるの?』

『入院中に? 有り得ない』

『何でそう思うの?』

『入院前から付き合ってた相手と一月に別れたきりだと思うよ』

『そんな最近まで彼氏いたんだ』

『病院通いが段々重荷になってたみたいで』

『そうなんだ』

『短期入院ならまだしも、いつまで続くか分からないとなるとね』

『辛いね。自分が何かした訳じゃないのにね』

『人生は脱げない服なんだって』

『何それ?』

『好き嫌いに関係なく、与えられた服で死ぬまで踊るしかないって』

『どうにもならない事のためにそれじゃあ確かに悲しいね』

『何で急にウチの姉ちゃんに関心?』

『樹の事で。どうも彼女がいるっぽい感じがするんだけど、誰なのか分からなくて』

『で、ウチの姉ちゃん?』

『もしかしたらと思って』

『最近あまり病院に行ってないけど、まさかね。もう一人同室の子がいたからそっちかもよ』

『そういえばいたね。良く知ってる子?』

『話した事くらいはあるけれど、そんな突っ込んだ所までは』

『そうだよね』

『次に行った時にさりげなく探ってみるよ』


 皆それぞれ自分の課題に取り組んでいた。香澄と日向は入学に備えた復習を行い、智草は中高一貫なので普通に課題が出ていた。一方、樹は入学準備に何をしたら良いか分からず、卒業と入学の狭間で宿題もなかった。どうしてもやる気が出なくて窓の外を眺めていた。その時、ふと視線に気付いて横を見ると智草と目が合った。

「ん?」

「ははは、ごめん。こういうの照れるよね」

 良く分からないまま笑い返すと視線を窓の外に戻した。意識は遠くの空をさまよっていた。

「水野、あんた少しは勉強しなよ」

 香澄がだらけた様子に気付いた。

「進学校の皆さんは大変だねーー」

 樹は他人事のように応える。

「くぬっ!」

 香澄が机の上を滑らせてテキストをよこした。

「あん?」

 覗き込むと証明問題だった。

「解いてみ」

 樹は机の上のテキストを暫く眺めて考え込むと、おもむろに答えた。

「証明を書くには余白が狭すぎる」

「あら、難しすぎた〜?」

 勝ち誇った顔の香澄の正面では智草が口を抑えて笑っていた。

「ははは、解明に数百年?」

「何の事?」

「教養の差」

 樹がボソッと呟いた。

「ははは、昔数学者が本の余白に書き込んだ命題だよ。証明する方法を思いついたけど、それを書くにはこの余白は狭すぎるって書き残してあったんだ」

「タダの手抜きじゃないの」

「その後数百年、誰もそれを証明できなかったんだよ」

「落書き一つで迷惑な奴」

「何でも答えが簡単に手に入る訳じゃないって事だ」

「偉そうに。分からないなら分からないって言え」

 文句をつける香澄に樹は面倒くさそうに答えた。

「覚えといて損はないぞ。シャレの分かる先生なら部分点くれるかも」

「冗談で試験通る訳ないでしょ」

「冗談で通った奴が何言ってんだ。ま、俺は二度と入試は受けないからどうでもいいけどなーー」

「何か猛烈にムカつくわ。この気持を誰かと共有したい」

 香澄はそう言うと握った拳を突き出した。

「ははは、私もグーで殴りたくなってきた」

 智草も笑顔で握った拳を持ち上げてみせた。

「樹、ダメだよ。受験のある人達を刺激しちゃ」

 日向がのんびりと言った。

「やっしーもでしょ」

 それを耳にした智草が聞いた。

「そういえばさ、二人は高校に行ったら呼び方どうするつもりなの?」

「え?」

「やっしーと山田で通すつもり? 同じ中学は二人だけなんでしょ、周りの人達も二人の呼び方に合わせると思うよ。」

「そう? 考えた事なかったわ」

 樹には嘘だと分かっていた。智草もそれは察していたようだ。

「これを機会にお互い名前で呼ぶように変えたら?」

「え……?」

「いいじゃない、香澄と日向で。最初からそうしておけば皆自然にそうするよ。変えるなら今このタイミングしかないよ。リセットする最後のチャンスだよ」

「ちょっと照れくさいんだけど」

「慣れの問題だよ」

「智草は慣れてそうだよね。名前以外で呼ばれているのを見た覚えがないし」

「佐藤って一番多い名字だからね。どこへ行っても他の佐藤さんがいるから下の名前でしか呼ばれないんだよ」

「それはちょっとうらやましいかな」

「山田さんだって多いでしょ?」

「高橋、鈴木、加藤ほどじゃないよ。どこにでもいそうだけど、意外にバッティングしないんだよね」

 香澄の場合は相手の呼び方で付き合いの長さが簡単に分かった。小学校から親しかった相手は香澄と呼ぶ。中学で知り合った男子は山田と呼ぶ。他に山田がいなかった事だけが理由ではない。智草にはその機微は分からなかった。

「じゃあ、なおさら最初から周囲には名前でインプットしておかないとね」

 智草は日向を見て言った。

「日向くん、はい」

「え?」

「か・す・み」

「ええ?」

「ほら、練習。言って、言って」

「か……すみ」

 意外に素直に従った。香澄は思わず逆を向いて顔を隠した。日向からは見えないが、樹からは髪の隙間から真っ赤になっている耳が見えた。

「もう一回」

「かす、み」

「スムーズに」

「香澄」

「良く言えました。じゃ、今から山田は禁止ね」

「今から?」

「そう、今から。山田って言ったら罰ゲームだよ」

「どんな?」

「香澄ちゃんの目を正面から見ながら『かすみ』って100回言うとか」

「ええええ」

 誰に対する罰ゲームだろうと樹は思ったが、面白いので黙っていた。

「香澄ちゃん」

 今度は香澄の方を向いて言った。

「はい……」

 日向に後頭部を向けたまま香澄が答えた。

「分かってるよね? 同じルールだからね」

「う……」

「はい、言って」

「ひな……た」

「ちゃんと」

「ひ、なた」

「まだダメ。ぎこちない」

「ひ・な・た」

「いちいち区切って呼ぶ気? もう一回」

「日向……」

「うん、まあ最初はこんなものかな。じゃあ、慣れるために意識的に相手を名前で呼ぶようにね」

「はい……」

 二人とも耳が赤くなっている様子がおかしくて樹は口元が緩んで仕方なかった。


「一度定着した相手の呼び方変えるって結構抵抗感あるのよね」

 そうさくらが言うと、樹が答えた。

「確かにね、土屋」

「何で今さら?」

「初めて会った時、俺に名字教えなかっただろ」

「樹だって」

「俺は入室した時に紹介済だっただろ。さくらが当然のように樹でいいよねって言ったんじゃないか」

「そうだっけ?」

「そうだよ。幼稚園児かよって思ったけど」

「良かったじゃない。呼び方変えるのは大変だよ。私は名前で呼ばれたいし、呼びたいの。分かった、水野?」

「はいはい、土屋」

「ほら、違和感だらけでしょ。樹」

「そうだね。さくら」

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