第44話 2020年3月28日(土)

 さくらはモヤモヤとした感覚を味わいながら電話の向こうの話を聞いていた。朝からストレスが大きすぎる話だった。

「それで再来週から一緒に通学する事になったんだ」

 智草の声は少し弾んでいた。

「地道に行く事にしたんだね」

「関係性が充分じゃないって言ったのは誰だっけ」

「時間をかけるのは良い事だと思うよ。香澄ちゃんだってそうでしょ」

「あの二人は戦友みたいな所もあるからね」

「一緒に目標を達成した経験って大きいんだね」

「羨ましい。私はそういうもの全くないから」

「あの二人は一年以上前からでしょ。まだ数週間じゃない。来年の今頃になってようやくあの二人に並ぶんだよ」

「知り合ったのは何年も前なのに……」

 言葉に悔恨がこもっていた。

「どれくらい前から知っているかじゃなくて、どれだけ一緒に過ごしたかでしょ」

 そう言った時にさくらは少し愉悦を感じた。その時、この愉悦が銀貨三十枚だと気付いて気分が悪くなった。

「だからこんな悠長に進めていて大丈夫なのか不安で」

 智草は全く気付いていない。

「さくらちゃんが言う通り、私はまだ数週間の新参者じゃない。他の子に対して優位性はないよね」

「他の子の心配しているの?」

 イスカリオテのシモンの子さくらは胸に痛みを感じながら聞いた。

「高校生になれば新しい出会いがあるかもしれないじゃない」

「男子校で?」

「男子校って言っても修道院じゃないんだから。人口の半分は女なんだし」

「それで焦っているの?」

「それは焦るよ。私は同じ学校に通っている訳じゃないから普段の様子は分からない。寄ってくる子がいたとしても私からは見えないし、クラスの噂も入って来ない。呑気に友達ごっこしている間に誰かがさらって行くかもって思うと焦るよ」

「他校の生徒と付き合うって意外に大変なのね」

「近いのに遠距離だよね。だから新学期が始まる前に只の友達じゃないくらいにはなっておきたかったんだけど」

「あと一週間しかないよ」

「厳しいかな。私の事、目に入ってないみたいだし」

「どうしてそう思うの?」

「上手くは言えないけど」

 電話の向こうでしばらく沈黙した後、智草は続けた。

「見えてるけど見てない感じ」

 さくらの胸に更に罪悪感が湧いてきたが、感情を抑えて聞いてみた。

「誰かいると思う?」

「分からない。香澄ちゃんはあり得ないって言ってたけど」

「そう」

 さくらは少しほっとしたが、罪悪感は止まらなかった。

「でも、やっぱりこのままじゃいけないような気がするの。せめて意識されるくらいにはならないと」

 さくらは前向きに考えられる智草が羨ましくなった。

「自分がどうしたいかをちゃんと分かっているんだね」

「ははは、当然でしょ。さくらちゃんは違うの?」

 さくらはその質問に答えられなかった。自分が抱えている矛盾を整理できていなかった。


 窓の外に見える雲が紅く映えていた。あと数分もすれば紅は紫に変わり、程なく黒になる。樹とさくらは昨日からずっとそうしていたかのように同じ姿勢だった。

「人を好きになると相手を幸せにしたいって思うよね?」

 さくらが樹の耳元でささやいた。

「その二つが一致しない場合はどうしたらいい?」

「ん?」

「好きと幸せにしたいが相反する場合」

「さくらは自分の幸せだけ考えればいいよ」

「ありがとう」

 しばらく迷ってからさくらは続けた。

「でも私……人が泣くところを見るのがもう嫌なの。辛くて見ていられない」

「それは分かるよ。でも、人を泣かせないために嘘をつくのはやめた方がいいと思う。その時は泣くのを見ないで済むかもしれないけれど、後でもっと泣かせる事になるような気がする」

「言いたい事は分かるよ。それでも見たくない……」

「それで知った後も黙っていたよね」

「うん。言えなかった」

「お互いに思いやって、そのためにお互いに嘘をつきあって、お互いに見えない所で泣く」

 以前この事を知った時には苛立ちを感じたが、今の言葉は淡々としていた。努力では解決できない事があると知った。失う恐怖を知った。樹は以前よりも弱くなっていた。同時に人の弱さも分かるようになっていた。自暴自棄になったり、何かにすがりたくなったりする気持が理解できた。

「好きな人がこれ以上泣く所は見たくない。黙っていればこれ以上誰も泣かずに済むじゃない」

「でもさくらは泣いていた」

「うん……一人で泣くのって辛い」

「人を泣かせないために自分が一人で泣くのはやめなよ」

「うん。もうしないよ、カミングアウトしちゃったし。それに、樹が戻って来た時から一人じゃなかった」

「それならいい」

「うん。だから私は樹が好きだし幸せだよ」

「それは良かった」

 さくらは体を離し、掌で樹の頬に触れた。目はすぐ近くから樹の目を真直ぐに見つめていた。

「樹は?」

「さくらが好きだし幸せだよ」

 さくらには分かっていた。その二つは樹には同時にやって来ない。窓に目をやると紫の時は終わり外は暗くなっていた。また一日、今日が終わった。

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