第43話 2020年3月27日(金)
『いる?』
柊司からのメッセージだった。
『いるよ』
葵は即返信した。
『この前の病院の件、面会制限の例外があるって』
『なに?』
『緩和ケア』
『何それ?』
『もう治らない人用。苦しまず幸せにって』
『それって、もうだめって事?』
『平たく言えば』
『その子が?』
『俺もHPで見ただけだから詳しくは分からないけど、今病室に入れるのは危篤の場合と緩和ケアくらいなんだって』
葵はこれまでの樹の行動を思い出して結論付けた。
『病院に入り浸っているのはそういう事か』
柊司に返信した瞬間に玄関のベルが鳴った。葵は慌ててもう一本メッセージを送った。
『ありがとう柊司。誰か来たみたいだから終わるよ』
『どうたしまして』
葵はインターフォンで来客を確認すると玄関のドアを開けた。
「ちぐちゃん、いらっしゃい」
「葵ちゃんお久しぶり。樹くんいる?」
「相変わらず部屋にこもっているよ。どうぞ」
「お邪魔します」
靴を脱いで上がると智草は廊下のドアをノックした。マスクはあえて取らなかった。
「はーーい」
中でゴソゴソと音がした後、樹がドアの間から顔を出した。
「はい」
智草が両手を前に出すと樹が消毒液をスプレーした。
「どうぞ」
樹は智草にベッドを椅子代わりに使うよう促すと、自分は机の椅子に座り部屋の対角線側へ移動した。
「お久しぶり。プロトコルは変わらないんだね」
「まあ、感染しない事が何よりも重要なんで」
「新学期からはどうするの? 家にこもっている訳にはいかなくなるよ」
智草はさりげなく話題を振った。昨日の香澄と日向を見て、以前の約束を樹がまだ覚えているか確認せずにはいられなくなった。
「電車に乗りたくないんだよね」
樹は素直な気持ちを口にしただけだったが、智草は樹が約束の事など忘れていると取った。
「そうなんだ……朝一緒に行こうって言ったの覚えている?」
智草の顔が曇った事に気付いた樹は慌てて言った。
「覚えているけど、どこでウィルスもらうか分からないから嫌なんだよ。電車かもしれないし、教室かもしれない」
樹の過剰な反応が引っかかった。
「入学するなり登校拒否するつもり?」
智草にしては珍しくキツい口調で言った。
「そうもいかないよな……」
樹ががっくりと答えた。その辺りはちゃんと分かっているようなので安心した。
「入学式はいつ?」
「四月六日」
「なら春休みは来週で終わりだね」
「ずっと休みならいいのに」
「はいはい、それは無いから諦めて登校して。六時五十分に下に集合だよ」
「へえへえ」
とりあえずリマインドには成功したが、何だか遅刻グセのある弟の面倒を見ているような気分だった。
「遅刻しないようにね」
「はいはい」
樹は上の空だった。
「へえ、みんな朝から晩まで勉強しているのかと思っていたけど、案外そうでもないんだね。結構部活やっているんだ」
香澄がスマホを見ながら言った。
「自分が行く学校の事、今まで調べてなかったの?」
智草が呆れた声で言った。
「いや、どうせ勉強ばっかりだろうと思っていたから」
「やりたい事をやれって推奨しているみたいだよ」
日向はちゃんと調べていた。
「そうなんだ。なら私もどこか入ろうかな」
「ははは、目が光ったね」
「諦めていたからね」
「運動なしは無理でしょ。香澄ちゃんの場合」
「体が腐っちゃいそうだしね」
「ようやくいつもの顔が戻って来たね」
「ここしばらくはまともに運動してなかったし、どこ入ろうかな。中学にはなかった部とかもいいな」
香澄は弾んだ声になっていた。
「体育会帰宅部はなくなった? 残念」
日向の声には少しも残念そうな響きがなかった。
「ははは、なら同じ部に入ったら?」
「体力差があるし、普通男女一緒の部にはしないんじゃないかな」
「そうだね、男子高校生が香澄ちゃんの体力について来られる訳ないもんね」
「有り得ない、有り得ない」
「じゃあ文化部に入る?」
「それも有り得ない。私に文学少女が勤まると思う?」
「ちょっと見てみたいけどね」
「智草はどうするの?」
「ん〜、多分そのまま今の部だろうね」
「中高一貫だと全員が同じ高校へ上がるんだもんね。そりゃ逃げられないわ」
香澄がうんざりした口調で言った。
「何部なの?」
会話に付いて行けてなかった日向が聞いた。
「言ってなかったっけ? 剣道部」
「初めて知った」
「しかも初段」
香澄が意地悪く言った。
「それってどれくらいなの?」
「剣道三倍段って知っている?」
「いや」
「素手の武道が剣道の相手しようと思ったら三倍の技量が必要なんだって」
「つまり樹が智草の相手をしようと思ったら三段にならないとダメって事?」
「水野が智草に棒でタコ殴りにされている絵って面白すぎるでしょ」
「こらこら、そこ。強キャラにして遊ばないでくれる?」
「智草と水野が勝負している所が見てみたい」
「今の樹じゃ小学生にも勝てなさそうだよね」
「最強智草と最弱水野」
「ははは、暴力反対」
「ねえ」
樹の耳元でさくらがささやいた。
「何?」
「私がいなくなった後どうする?」
樹は答えられなかった。さくらには樹が準備できていない事が分かっていた。
「樹が入院してきた日の夜に言った事覚えている? 一人で我慢しているといつか辛くて折れるんだよ」
「ああ……」
樹とさくらが出会った日の事は良く覚えていた。
「私は怖い。でも一人じゃない」
「うん」
樹の腕に力が入り、さくらを強く抱き寄せた。
「だから樹が辛い時は私が一緒にいてあげたい。でも、その時私はもういない」
樹は沈黙した。さくらが体を離し、樹の目を正面から見た。
「樹、一人でなんとかしようと思わないで。人を頼るのは弱さじゃない」
樹はしばらく考えてから答えた。
「頼れるならばそうしたいけど、他人にはどうにもできないと思う」
「どうして?」
「同じ辛さを味わっていれば痛みを分かりあえると思う。でも俺と同じ関係をさくらと持つ人間は他にいない」
さくらは樹の胸元に額をつけた。
「世界に一人だけ」
誰かに向けた言葉ではなかった。何故か口から自然に出てきた。
「一緒に泣く事はできても痛みは共有できない。樹だけの痛み」
「他の人と分かち合えない以上、俺が自分で何とかするしかないだろ。後の事は大丈夫だから余計な心配しなくていいって。自分の事だけ考えろって言っただろ」
「ありがとう。でも」
さくらは顔を上げ、また樹の目を真直ぐに見た。
「私の物語はそこで終わりだけど、樹の物語は終わらないからね。前の章を読み返しているだけじゃ次の章へは進めないよ」
「分かっているって」
樹は強く言い切ったが、さくらはその目の中にある物に気付いた。それは何度も見た事があった。恐怖。さくらは確信した、樹は恐らく立ち直れないだろう。沈んだまま溺れる事を望み、既に読み終わった章を繰り返し読み続け、決して先には進まない。今さくらの目の前にいるのは自分の墓標になる予定の石、血の通った温かい石だった。
さくらはまた樹の胸に額をつけた。
「お願い……」
先が言えなかった。樹は生きたまま死ぬ。その原因は自分だ。
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