第42話 2020年3月26日(木)

「へえ〜、ずいぶん攻めた発言して来たね」

 葉月が感心した声で言った。

「でしょ、でしょ」

 香澄の興奮した声が続いた。

「それって、ずっと俺と一緒にいてくれって意思表示だよね」

「やっぱりそう思う?」

「あ、ちょっと待って」

 電話の向こうで葉月が何かを操作する音が聞こえた直後に樹の声が入って来た。

「んで、何の案件?」

「ちょっと、何で水野がここで登場すんのよ?」

「ごめん、ごめん。私が招待したんだ。意見聞きたくてさ」

「何の意見?」

 樹は状況が飲み込めていなかった。

「昨日、日向君が香澄ちゃんに一緒に大学行こうって言った件」

「あいつ、そんな事を言ったのか。で、何て答えたんだよ?」

「高校でも日向が教えてくれるならがんばるって」

「がんばって四年で卒業するって?」

「っさいなあ、留年なんかしないよ。あの場はそう答えるしかないでしょ」

「俺、その場にいなかったんで状況が分からないんだけど、どういう脈絡で言われたんだ?」

「大学の話してたら唐突に一緒に行くかって言われた」

「いつ、どこで?」

「昨日、日向の家で」

「二人きりで手を握ってとか?」

「まさか。智草が目の前にいたんだよ」

「言った後、あいつどんな顔してた?」

「笑顔で大丈夫って……」

「う〜ん、どうだろう。あまり考えてないような気がするな」

 とたんに葉月が割り込んで来た。

「ちょいちょい、それは無いでしょ。常識的に考えて告ってるようなもんじゃない」

「高校も一緒だから大学も一緒に行こう、くらいのノリじゃないかな」

「そこまで言っといてそれはない。有り得ない!」

 葉月は力説した。

「だって日向だぜ。天然の」

「自覚のないお馬鹿には困らされるわね」

 突然さくらの声が入って来た。

「うわっ、いつからいた?」

「樹が入る前から」

「参加者くらい先に教えろよ」

 樹が葉月にこぼした。

「ごめん、ごめん。で、本題なんだけど。樹の意見ではあれは本気じゃないと?」

「いや、本気は本気だと思う」

「ふんふん」

「でも友達に対するノリの延長線上っぽいな」

「結局また友達以上、端数切捨て?」

「まあ、自分からそんな事言い出すのは進歩かな? かなり特別って感じはする」

「煮え切らない子だね。がんばって名前で呼んだところまでは良かったのに」

「あれは効いた〜〜イキナリは反則だよ」

 余韻を味わうように香澄が言った。

「念願かなって良かったな」

「何でよ?」

「日向が智草って呼ぶのが気に入らなかったんだろ? 逆に日向くんって呼ばれるのも」

「……」

 とたんに無言になった。

「分かりやすい奴」

「相変わらず可愛いねえ。あと一歩じゃん」

 葉月が嬉しそうに言った。

「その一歩が牛歩だけどな。あいつ彼女いた事ないし、凄く仲のいい友達と彼女の違い言ってみろって言われたら答えられないんじゃないかな」

「ちなみに樹だったら何て答えるの?」

 さくらが質問した。

「そうだな……」

 しばらく考え込んだ後に樹が答えた。

「ギュっとしてキスしたいと思うかどうか」

「何それ? 本当にアニマルだね」

 回線越しでも香澄の呆れた様子が分かる声だった。

「日向君は何て言うのかしら?」

 さくらは呆れていなかった。

「凄く仲の良い女友達って言うかも」

 樹が答えた。

「あら、その定義なら既に彼女ね」

 さくらが当然のように言った。

「それじゃ彼女が何人いてもおかしくないじゃないですか……」

「あいつとそこまで仲がいい奴なんていないから大丈夫だろ」

 樹にしては珍しく香澄を応援した。

「これからもそうなる保証ないじゃない。それにそんなポジション私は嫌」

「じゃあ境目はどこにあるんだよ?」

「それは……」

 続く言葉が出てこなかった。

「自分が日向君とどうしたいのか言えばいいのよ」

 さくらが助け舟を出した。

「私は……日向とずっと一緒にいたい」

「その望みは既にかないそうなんだろ。本当にそれだけでいいのか? 他に仲のいい女友達が大勢いて、自分がその中の一人でも構わないのか?」

「嫌に決まってるじゃない、そんなの」

 即答する香澄をさくらが肯定した。

「そうだよね、特別な一番になりたいよね」

「なりたいです……」

「じゃあ、どうしたいの? どうすれば自分がその他大勢の一人じゃないって確信持てる?」

「それは…………友達とはしない事を」

「要するにギュッとしてチュッとしたいんだろ?」

 樹が割り込んだ。

「もう少し上品な言い方しなさいよ」

「表現変えてもやる事は一緒だろ。したい事は結局アニマルじゃないか」

「仲間にしないでくれる?」

「自分に正直になれって」

「自分じゃなくて欲望にでしょ?」

「どこが悪い」

「開き直ったよ、このケダモノ」

「まあまあ。言い方に問題はあるけれど、その通りじゃない?」

 さくらがとりなした。

「樹が言いたいのは自分の思う所に素直に従えって事でしょ?」

「綺麗な言い方をすればね」

「そこがまだ香澄ちゃんの中でクリアになってないんじゃない?」

「そうなんですかね……」

「もし日向君とそうなるチャンスがあったら、香澄ちゃんはする?」

「え……まだちょっと早いって言うか……」

「思い切って飛び込まなかったらずっと後悔するよ。その瞬間はその時にしかない。次回や明日はないよ」

 さくらはこの点に関しては厳しかった。

「その時に冷静に考えるなんて出来っこないから、そうなった時の事を想像してどうするか決めといた方がいいよ」

 葉月がアドバイスした。

「それ一択だろ、どう考えても。それで決まりじゃん」

 樹が混ぜ返した。

「相変わらず分かんない奴だね。本当はOKしたいのにびっくりして思わず拒否っちゃうかもしれないじゃん。そうならないようにシュミレーションしとくって意味だよ」

 葉月の説教が始まりそうだった。

「はあ。要するに妄想?」

「女の子にとって初めてがどれだけ怖い事なのか分かんなよ! 突然の事で石になってるのに、目の前から男が迫ってくるんだよ。しかも普段と違ってちょっとおかしくなってるし。好きでも恐怖なんだよ!」

「いいぞ、いいぞ。もっと言ってやれーー」

 さくらが寝返った。

「……男にとってもそうだよ」

 樹の発言を香澄は聞き逃さなかった。

「へえーー。水野、あんた面白い話できるようになったじゃん。詳しく言いなさいよ」

「お前には関係ない。それに今日の議題はそこじゃないだろ」

「私の話ばっかりじゃない」

「お前はその時に備えて妄想膨らましとけ」


 智草はフローリングの上に寝そべって天井を見ていた。背中に当たる床の固くひんやりとした感触が伝わってくる。天井の一点を眺めながらぼんやりと考えていた。再来週から新学期が始まる。その時点で何の進展もなければ難しい事になる。今となっては登校の約束も生きているかどうか怪しい。樹とは十日以上会っていない。問題はそこだ。このまま四月を迎えれば何となくフェードアウトしてしまいそうな予感がする。入学式までの残り十日の間に何かが欲しかった。会うだけならエレベーターで数フロア移動するだけで良かった。かかる時間はほんの数分だ。以前なら気軽に取れる行動だったが、今は腰が重くなっていた。正面から向き合う勇気がわかなかった。


「樹、彼女の調子どお?」

 葵は努めてカジュアルに聞いた。

「もう引っかからない」

 兄は冷たく答えた。

「聞いたよ。良くないんだって?」

 妹は何も聞こえなかったかのように続けた。

「入院してて良い訳ないだろ」

 不機嫌な声が返ってきた、

「個室に移ったんでしょ?」

「良く知ってるな。また葉月の弟か」

「情報源は明かせないけど」

「あいつの誘いには気をつけろよ」

「はいはい。で、どうなの?」

「うるさい」

 樹は会話を打ち切った。口にしなければ未来が変わる訳ではない事は分かっていたが、それでも自分の口からは言いたくなかった。


「そういえば通学ルートどうするか決めた?」

 日向が聞いた。

「押上から半蔵門線で一本かな」

 香澄の家からは押上駅が一番近いので当然の回答だった。

「見附から歩くと遅刻坂登らなきゃならなくなるし」

 もちろん俗称だが字面からその意味する所はすぐに分かる。

「ははは、通学路の上り坂は本当に辛いよね。私もそうだから良く分かるよ」

 智草も高台にある学校まで駅から上り坂なので実感があった。

「日向はどうするの?」

「迷ってる。ウチからだと本所吾妻橋の方が近いんだけど、乗り換えになるんだよね」

 本所吾妻橋駅は浅草線しか通っていない。このルートだと香澄とは違うルートになる。

「そこは半蔵門線一択でしょ」

 智草が当然のように言った。

「何で?」

「乗り換えは避けるのが基本だよ。どれか一つでも電車が止まったり遅れたりしたらアウトになるし、一本で行けるならそっちの方が絶対にいいよ」

「さすが経験者」

 日向が満足そうに言った。智草には分かった。日向は最初からそうするつもりで聞いたのだ。智草は口元が緩むのが止められなかった。

「でしょ。何時に着かないといけないの?」

「永田町に八時頃かな」

「じゃあ七時半に押上駅集合だね」

「集合?」

「一緒に行くんでしょ?」

「え……まあ、構わなければ」

「私はそのつもりだったんだけど」

 香澄が若干不満そうに言った。

「これで別々に行くとか、どれだけ仲悪いんだよって話じゃない」

「そ、そうだね」

「ははは、じゃあ七時半に半蔵門線の改札集合で決まりね」

 智草は勝手に仕切って決めた。

「は〜い」

 香澄は小学生のような返事で答えた。


 さくらは樹の肩に顎を乗せたまま耳元で言った。

「大学まで一緒に行こうとかいいよね。羨ましい」

 樹は何も言えなかった。自分達に未来はないとさくらから告げられた時の事が頭から離れなかった。

「そうなったらあの二人ずっと同じ学校に通い続ける事になるね。凄くない?」

「ああ……」

「付き合う相手って同じ学校が圧倒的じゃない。それって一緒に過ごす時間が多いのが原因でしょ。でも、あの二人は原因じゃなくて結果でしょ。ちょっと無いよね」

「普通は有り得ない。もしそうなればの話だけど」

「きっとそうなるよ。なって欲しい」

 予想というよりは願望だった。

「逆に私達って同じ学校に通った事が一度もないよね。それも凄くない? 完全な偶然じゃない」

「うん。確かに」

「樹がたまたまあの日に足を折って、たまたま予定していたベッドが塞がって、たまたま空いてたのが私の隣だったんだよね。どれか一つでも欠けてたら起こらなかった訳だよね」

「運命ってやつ?」

「もしかしたらね。でも選んだのは私達。そうしない選択肢もあったんだよ。私は樹を拒絶する事だってできたし、病気の事を黙っている事もできた」

「でも言う方を選んで俺を受け入れた。どうして?」

「そうしたかったから」

 さくらは簡潔に答えた。

「樹だって退院した日に戻って来ない選択肢はあったんだよ」

「でも俺は戻って来た」

「どうして?」

「そうしたかったから」

 樹も全く同じ答えを返した。

「そうでしょ。私達はそれぞれが選択したから今こうしている。どこかで誰かが勝手に決めたなんて思いたくない」

 樹の体に回したさくらの腕に力が入った。

「運命って多分一本道じゃないんだよ。それぞれの場面に選択肢があって、自分が選んだものが結果として運命になるんだよ。振り返って見ると歩んできた道は一本しかないからそれしかなかったように見えるけれど、本当は色んな選択をしてきた結果なんだよ。一つでも違う選択をしていれば、今いる場所は全く別の場所になっていた」

「脱げない服は?」

「選べない選択肢は選択肢じゃないよ。それは只の他人の服。私達ができるのは与えられた選択肢の範囲で決める事だけ。私の選択肢は少なかったけど、それでもゼロじゃなかった。色々な選択の結果として私達は今ここでこうしている。それは私が選んだから。樹が選んだから」

 窓から見える空は鮮やかな紫色に染まっていた。光と闇の境目の色は日没間際の僅かな時間にだけ現れる。その色が今この時を象徴しているように思えた。狭間の時間は短く、数分後には紫が黒一色に変わり夜が訪れた。

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