第41話 2020年3月25日(水)

 今日の二時から開催予定だった新入生ガイダンスは中止となった。代わりに教室で資料の受渡しを行うと高校から連絡があり、樹は神奈川まで書類を取りに行かなければならなかった。

「ただいま」

「おかえり」

「遅くなっちゃったよ。見てこれ」

 樹はさっき学校で受け取った封筒をさくらに見せた。

「配るだけならネットか郵送で良くね?」

 さくらは中の書類を見ていた。只の事務連絡文書と提出書類だったが、こういう物を見るのは初めてだった。

「樹の新生活が始まるんだね」

 羨ましそうな響きを隠さなかった。

「いやだなあ。行きたくなくなって来た」

「せっかく入った高校なのに、もう登校拒否?」

「俺が外をうろつくと、その分さくらが危なくなるからさ」

「ふふ、ありがとう」

 さくらの手が伸びて来て樹の耳からマスクの紐を外した。外されたマスクが片耳からぶら下がって揺れた。互いの距離が縮まり、僅かな隙間の空気を通して体温が感じ取れた。

「樹が私の事を思ってくれるのは嬉しいよ。でも時間は大事にして。今も、この先も。明日なんて存在しないんだよ。昨日『明日』って呼んでいた日が今日なんだよ」

 樹の上腕にさくらが触れた。

「昨日も明日もない。今日だけが存在していて、それが毎日続くだけ。積み重ねた今日が誰も知らないその人の物語」

 さくらは一息休んで続けた。

「私達は今この瞬間に今日を共有している。同じ物語を生きている。でもそれは永遠じゃない。樹は私がいなくても今日を生きる事をやめないで。私がいた昨日を生きていたら、その先には何もない」

 呼吸が少し乱れていた。

「明日から前を向いて生きようと今日を捨てたら、明日も同じ事を繰り返すだけ。その先にも何もない。今日を捨てたら何も残らない」

 さらに荒くなった呼吸に樹は心配になった。この程度の息すらも続かない事に驚いた。

「分かったから。深呼吸」

 さくらは止まらなかった。

「泣いてもいいんだよ。人を頼ってもいいんだよ。それは恥ずかしい事じゃない。でも痛みを恐れて、その日の今日から逃げないで」

 さくらは樹の肩に顔を埋めた。 

「あえて厳しい事を言うよ。それは私のためじゃない」


「オリンピックはいつ開催できるようになるんだろうね?」

 智草がスマホでニュースサイトを見ながら言った。

「私、楽しみにしてたんだけどな」

 香澄は悔しそうだった。

「チケット取ってたの?」

「全部外れた」

「やっぱり競争率高いんだね」

 オリンピックに全く興味のない日向にとっては完全に他人事だったが、香澄は諦め切れなかった。

「次のオリンピックはフランスまで見に行こうかな」

「ははは、大きく出たね」

「その時は私達もう大学生だよ。それくらいできるでしょ」

「行く所なくて浪人してなきゃいいけど」

 日向が自信なさそうに言った。

「何を言ってんの。行く所なんていくらでもあるよ。それとも何か狙ってるの?」

「いや、特に何も考えてないんだけどね。や……、大学も同じ所へ行く?」

「へ?」

 香澄は言葉に詰まった後、何とか答えた。

「高校でもが見てくれるなら……がんばるよ」

「うん。大丈夫」

 日向が笑顔で答えた。何がどう大丈夫なのか香澄には分からなかったが、いきなりの事に動悸が収まらなかった。

「ははは。香澄ちゃん、高校でも勉強漬けで大変だね」

「人の事言えんの? あんたも大学へ行くつもりなんでしょ」

「日向くんのレベルに合わせるような無茶はしないよ」

「へえ、もう志望決めてんの?」

「なんとなくは」

 樹と同じ大学だった。附属高は別学だが大学は共学だ。まだ三年あるから充分間に合うはずだ。

「何をしたいの?」

「いや、まだ学部までは……」

 不純な動機だったのでそこまで考えていなかった。慌てて話題を振った。

「香澄ちゃんは?」

「正直、適当に行ける所へ行って就職するくらいしか考えてなかったから、大学って言われても想像できないんだよね」

「ははは、一年で人生大きく変わったね」

「そうだね」

「次の三年でさらに変わるかもよ」

 日向が笑顔で付け加えた。

「私ついて行けるかな……」

「大丈夫、大丈夫。日向くんがついてるよ」

「そうそう」

 二人が笑顔で励ました。


 布団の上に寝転んで樹は画面のさくらの話を聞いていた。

「さっき言い忘れたけど、昨日夢を見たの」

「どんな?」

「私、制服を着て登校してるの」

「それは、ちょっと見てみたいな」

 樹は制服姿のさくらを想像した。

「曲がり角を曲がったら樹がいて、私が来るまで待ってたんだって。ドキドキしちゃった。夢の中でも相変わらずだったよ」

「褒められてるのかな」

「それから手を繋いで学校へ行く途中で香澄ちゃん達に会っておはようって言った」

「手を繋いで登校って……」

「その後学校に着くんだけど、それが何故か私が通ってた小学校なの」

「俺達も小学生?」

「ううん、今のみんな。私がイメージできる校舎が小学校だからじゃないかな」

「それで?」

「そこから先は……何だっけ?」

「覚えてないんかい」

「夢なんだから、そんなに覚えてないよ」

「楽しかった?」

「うん、楽しかった。でも起きたら泣いてた」

「夢は楽しいところで止めておくのがいいのかな」

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