第40話 2020年3月24日(火)

「あ〜どこか行きたい」

 机に突っ伏したまま香澄がこぼした。

「家にこもってばかりでストレス死しそう」

「ははは、毎日出歩いてるじゃない。ここに」

「こもってる事には変わりないじゃない。体がなまるわ」

「本当はこれも学校に知れたらアウトなんだけどね」

「どの学校? 私達今はどの学校の生徒でもないんだけど」

「そういえばそうだったね。私は中高一貫だからあまりそういう感覚ないんだよね」

 ここでも微妙な常識感覚の違いが発生していた。

「家にこもって勉強しているのに非難されるって何か納得行かないわ。年寄が三連休に花見に繰り出しているのに、何で私達が家にこもってなきゃならないの? 逆じゃない?」

 ここで日向が口を開いた。

「最高じゃん、堂々と引きこもっていられるんだよ」

「それは家にいても平気だからだよ」

「うん、この先一ヶ月こもっても平気な自信がある。普段から帰宅部で鍛えているからね」

「この帰宅ガチ勢」

「そこら辺のにわかとは違うんだよ」

「威勢と内容がマッチしてないし」

「ははは、体育会帰宅部」

「ウチの帰宅部は全国大会レベルだから」

「入りたくない部だわ。私は猛烈に外に出たい」

 香澄はもう一度言った。

「どこか行きたい所でもあるの?」

「特にないけど、出ないと発狂しそう」

「もうすぐ新学期だよ」

「そうだよ。卒業以上、入学未満の一番自由な春休みがもうすぐ終わっちゃうよ。この三月はもう二度と私の人生にはやって来ないのに」

「私はこうやって毎日近所の友だちの家に集まるって結構好きだけどなあ」

「智草は電車通学だから新鮮に感じるんだよ。私達にとってはいつも通り過ぎて」

「でも、四月からはみんな違う高校へ行ってバラバラになるんでしょ。ならばこんな事できるのも、もしかしたら人生最後のチャンスかもしれないよ」

「近所なんだから集まろうと思えばいつでも集まれるでしょ」

「最初のうちはね。でも違う学校へ通って、違う友達との生活が中心になると、共通の話題が昔話しかなくなって来るんだよ。今、この瞬間を共有していないから過去を振り返るばっかりになっちゃうんだよ。あの時はこうだったよねって」

 智草は元同級生達と違う学校へ独りで通っているので、過去しか共有していない寂しさと疎外感を知っていた。香澄達はこれからそれを知る事になる。

「場を共有している仲間として会えるのはこの春休みが最後だよ」

 智草の実感がこもっていた。

「最後の思い出作りだね」

 香澄がしみじみと言った。智草の言いたい事は伝わっていた。

「それでも二人は一緒だからダメージ少ないんだよ。他の人はそうは行かないよ」

「そうだよね、俺達は次の三年間も場を共有できるけれど、他のみんなとはもうないんだよね」

「そういえば、最後なのに姿を消したあいつは何してんの?」

「樹? 病院でしょ」

「もう十日以上見てないよね。本当はまた入院してるんじゃないの? 恥ずかしくて言えないだけで」

「入院を恥ずかしがるような奴には思えないけど」

「今度は恥ずかしい病気なんじゃない?」

「ははは、そっち系?」


 風呂上がりの葵は着信に気付いた。メッセージを確認すると柊司からだった。

『オリンピック延期だってさ』

 2020年夏の東京オリンピックは前々から開催が危ぶまれていたが延期が決定された。

『いいんじゃない。観光客が押し寄せて来た所で何もいい事ないし』

 興味が無いのでドライに返信した。葵にとって運動会よりも重要な事は幾らでもあった。

『ところで例の件、分かった?』

『やっぱりウチの姉ちゃんじゃなかった。もう一人のさくらって子だって』

『隣のベッドにいた白い帽子かぶった子だよね』

『もう病室にいなかった』

『退院したの?』

『個室に移ったって』

『個室に移るとどうなるの?』

『あまり良くないらしい』

『初めての彼女なのに重いなあ』

『ウチの姉ちゃんを見てて思ったけど大変だよ。普通の恋愛とは色々違うし、分かってあげなよ』

『分からないよ。普通がどんなものか知らないし』

『俺なら普通ができるよ』

『あ、そう。幸せなんだ。良かったね』

 意図と違う意味に解釈された。

『いや……』

『どうしたの。喧嘩でもした?』

『まだ何も。始まってすらいない』

『どういう状態?』

『気にはなってるんだけど、どう言ったら良いか分からなくて』

『そんなモジモジするなんて意外だね』

『何で?』

『チャラそうだから』

『チャラくねぇし! 俺のどこ見てそう思った?』

『顔と態度。それに女の子に悪い事する奴って、お姉さんのいる弟くんが多いんだよね』

『偏見だろ、それ』

『身の回りの経験則だよ』

『葵の周りにロクな奴がいないだけだって』

『私のって事は柊司も入ってるんだよ』

『俺、入ってるの?』

『入ってないつもりだったの?』

『直接会ったのまだ一回だけだし』

ね』

『もしかして俺、遊ばれてる?』

『軽く。チャラ男のくせにイジりやすいね。そういう手口?』


 樹はいつも通り布団の中でさくらと通話していた。もうすぐ日付が変わる。

「残念、中止だって。もしかしたら見られるかもって思ってたんだけど、私のオリンピックはリオで終わりね」

 リオデジャネイロは四年前だ。樹に覚悟を促すための発言はボディブローのように精神にダメージを与えていた。退院した日に腹を決めて戻って来たと言ったものの、減りゆく時間を体感するにつれて何の覚悟も出来ていなかった事が分かってきた。樹はさくらとの別れに耐えられる自信がなかった。

「次のオリンピックってどこなんだろ?」

「パリ。その次がロサンゼルス」

「じゃあ樹はパリの時は十九歳、ロスは二十三歳だね」

 樹には四年後、八年後の自分が想像できなかった。さくらもこのまま生きていればパリは二十歳で、ロスは二十四歳で迎える事になる。

「私の代わりに誰かと見といてね」

 さくらは努めて明るく言った。残念ながらさくらの時計の目盛は十六までしかなく、その針は最後の目盛に達しようとしていた。時計は間もなく止まる。

「誰かなんて想像できない」

「今はね。でも、いつか私ができなかった事をしてくれる人が現れるよ」

「そんな話すんなよ。さくら以外の誰かなんて考えられない」

 樹は不機嫌に言った。

「ごめん。でも約束したでしょ。生きた墓標にはならないって」

 形は謝ってはいるものの、教え諭すような口調だった。

「沈んでもそのままではいないって」

「うん」

「先の事を考えられないのは前を向いていないから。忘れないで」

「……それでも俺はさくらがいい」

 聞き分けのない子供のようになっていた。

「ありがとう。嬉しいよ、物凄く」

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