第39話 2020年3月23日(月)
「ただいま〜〜」
樹が病室のドアを開けて入った。
「その入り方いいわね」
さくらが迎えた。
「お気に召してなにより」
「久しぶりに会えたし」
「中一日で久しぶり?」
「十八時間が限界、禁断症状が出ちゃう。誰のせいだっけ?」
「俺」
「分かってるなら早く、早く」
さくらが手招きした。
「荷物持ってきたよ」
肩からバッグを下ろしながら柊司が言った。
「お、珍しい。どうしたの?」
葉月が意外な顔をして見上げた。
「たまには代わりに行くってお母さんに言った」
「才色兼備なお姉様に会いたくなった?」
「誰が?」
「あん?」
「もちろん、そうです」
「で、本当のところは?」
「退院したの?」
柊司がさくらの場所だったベッドを親指で指した。
「さくらちゃんに会いたくて来たの? 守備範囲広いなあ」
「ないない。葵に聞かれて」
「葵? 聞かない名前だね。どこで引っ掛けた?」
「兄貴が骨折して入院してた子。あのベッドにいたじゃん」
今度は隣のベッドを差した。
「この前見舞いに来てただろ」
「なんだ、樹の妹ちゃんか。バカ兄貴と違って可愛い子だったね。私の見立てでは将来ウンコしない系になるね」
「もう少し綺麗な表現できないのかよ」
「それにしても手が早いね。いつの間にツバつけた?」
「つけてねえし。で、やっぱりそう?」
「そうだよ。樹の相手はさくらちゃんだよ」
「もういないの?」
「先週個室に引っ越した」
「それって、あんまり良くないって前言ってなかった」
「そうだね。良くない」
葉月は理由を言わずに短く答えた。眉間にかすかに皺が寄っていた。
さくらがスマホを操作すると画像が送られて来た。岩の上を流れる水の写真の上に言葉が書いてあった。
“You drown not by falling into a river, but by staying submerged in it. “
「コエルホ?」
樹が写真の下の方に書かれた名前らしきものを読んだ。
「コエーリョ」
さくらが訂正した。
「川に落ちたから溺れるのではない、沈んだままでいるから溺れるのだ」
樹が訳した。
「さすが現役」
「もう現役は卒業したよ。それに意味が分かったような、分からないような」
「今はね。いずれ分かるよ」
「そうかな」
樹は半信半疑で答えた。さくらは両手で樹の顔を挟み、言い聞かせるように言った。
「いい、川に落ちたら沈むかもしれないけど、沈んだまま身を任せたりしないで。自分で自分を見捨てたら末路は一つだけ。樹は自分の意思で浮かび上がって」
「当然そうするよ。溺れたくない」
「必ずだよ」
「もちろん」
「ん?」
視線に気付いた香澄が振り向いた。
「あ、いや」
香澄と目が合って日向は気まずそうに言った。その様子をテーブルの反対側から見ていた智草は羨ましく思った。自分もそんな風に見られたかった。向けられた視線に気付いて顔を上げたら目が合う。どんな気分だろうと想像した。樹とは先週に寄るなと言われて以来会っていない。会わないまま何となく時間が過ぎるといつのまにか疎遠になる。既に一回起こった事なので、もう一度そうなる事が怖かった。
「どうしたの、二日連続で私が恋しいなんて」
イヤホンから葉月の声が明瞭に聞こえた。
「いや、ちょっとオネエに教えて欲しくて」
「略すなって言ったでしょ。で、何?」
「与えられた服で踊り続けるしかないって言った?」
「何で樹が知ってるの?」
「さくらから聞いた」
「あ……そう」
「さくらのオリジナルかと思っていたけど、出所は葉月だったんだ?」
「そうだよ。それ、嫌な事を思い出すんだよね」
「ごめん」
「じゃあ、知っているんだね?」
「それを確認したかったんだけど、間違いない事はもう分かった。あのさ、前に言っていた身長差カップルの件って……」
「そうだよ。実感こもっていたでしょ。三十センチも身長差あると色々大変なんだよ」
「経験者は語る」
「しかし、さくらちゃんも意外におしゃべりだねえ」
「さくらじゃないよ。さくらから聞いたのはキーワードだけ」
「じゃあ誰から?」
「ウチの妹」
「何で妹ちゃんが知ってるの?」
「さあ、俺もそれが不思議で。さくらの事も知っている感じだったし」
電話の向こう側で葉月が確信を持って言った。
「そういう事か。姉の個人情報を売った奴が誰か分かったよ」
「それ、既に犯人手配中じゃん」
「今度来たらシメとくよ」
「やりすぎない程度にな」
「法律で決まってるんだよ。姉の前で弟に人権はない」
「ウチの妹にも言ってやりたい。兄の前で妹に人権はない」
「妹ちゃんは可愛がらなきゃ。特に葵ちゃんは将来が楽しみな子だから」
「名前まで調査済みかよ」
「情報売り歩いてる奴がいるって言ったじゃん。あいつにはおイタしないように言っとくよ」
「おイタ?」
「葵ちゃんに。私は出産できないから、あいつにはどうしても甥っ子姪っ子を作ってもらわなきゃならないんだよね。葵ちゃんならかなり美形の子が期待できるんだけど、その為には本気で付き合ってもらわないと」
「ちょっと待て。何さらっとウチの妹を妊娠させる話してるんだ。まだ中一だぞ」
「樹は気が早いな、今すぐの話じゃないよ」
「当たり前だ。それから勝手にカプるな」
「独り占めしないで分けてよ。私、あの子欲しい」
「葵と付き合いたかったら、組手と将棋と麻雀で俺に勝て。そうしたら認めてやる。殴り合いと頭脳と勝負運の全てで俺以上だと証明してみせろ」
「意外に兄バカだね。分かった分かった、ちゃんと避妊するように言っとくよ」
「そういう意味じゃねえ」
「お兄様がお怒りでーーす。冗談、冗談。妙な事しないようにきっちり躾しておくから大丈夫。あいつが私に歯向かえる訳ないし」
葉月が一瞬だけ悪魔の顔をのぞかせた。
「……姉ちゃんって怖いな。俺いなくて良かった」
「姉さん女房がいるでしょ」
「年上感覚はないよ。初めて会った時なんて葵くらいの歳だと思ったし」
「気付いてないだろうけど、もう樹は年下彼氏仕様になってるよ」
「まさか」
「樹はさくらちゃんに最適化されてるんだよ。ああ見えて結構お姉さん気質だから、気付かない間にそれに慣れきってるんだよ。樹が年下の子と付き合ったら要求がウザいって思うだろうし、相手の子は樹の気遣いが足りないって怒るだろうね」
「ふうん」
「疑ってるね。本当だよ。付き合っていると自分で思っている以上に相手に染まるんだよ。それに初めて気付くのは他の子と付き合った時だけどね。その時になって常識感覚が人によってかなり違うって分かるんだよ。そして、そこのギャップが大きいとあっという間に破局するんだよ」
「そうなんだ」
経験の無い樹には伺い知れない世界だった。
「そうだねえ、例えば毎日一時間おきにメッセージ送るのが常識の子がいるんだよ。授業が終わる度に彼氏とメール交換してる子、私のクラスにもいたよ。返事が来なかった後の授業はもう……」
「ウザっ」
「ほら、そういう所。さくらちゃんはスマホ音痴だしSNSも使わないからそういう要求しないでしょ。だから異常に思えるかもしれないけど、世の中にはそれが当然のカップルもいるんだよ」
「俺には無理だわ」
「中にはそういうのを喜ぶ男もいるんだよ」
「まあ、全く分からない訳じゃないけど、」
さくらにマーキングされた時の事を思い出した。
「一時間おきに連絡は勘弁して欲しいな」
「でも、さくらちゃんがそういう子だったら樹もそれが当然になってたと思うよ。常識感覚なんて所詮そんなモンなんだよ。そういう細かい期待ギャップが積み重なって差があまりにも大きいとお互いに幻滅して終わるんだよ」
「みんな大変だねえ」
樹は他人事を決め込んだ。
「私が見た範囲では、二人目の相手とは短期間で終わってる子が多いね。最初に付き合った相手との間の常識や習慣しか知らないでしょ。それを無意識に当然の事として相手に要求するから衝突の原因になるんだよ。三人目以降になると少し落ち着いて、常識が人それぞれ違うって受け入れられるようになって来るんだよ。だから二人目は避けた方がいいポジションなんだよ」
「はあ……」
付いて行けない次元の話になっていた。
「二人目はどうせ踏み台だから、本命にしたい相手ならやめとけなんて意見もあったしね」
「あのう……俺達まだ初心者なんで」
「そうだったね、失礼失礼。初恋は一生に一度だけ、そんな気持になれるのもこれ一回限り。今しかないんだから後悔のないようにね」
葉月の言葉に言外の意味が含まれいるような気がしたが、あえて何も言わなかった。
「そうするよ」
「あの時は一晩中一緒にいてあげる必要があったの」
夜に布団の中で聞くさくらの声は少し疲れているようだった。
「そんなに情緒不安定になってたんだ。想像しにくいな」
「いつもの葉月ちゃんしか知らないからだよ。普段は見せないけど色々傷付く経験してるんだよ。私に同じ事が起こったら一晩泣く程度じゃ済まないと思う」
「俺が最期まで一緒にいるから、さくらにそれは起こらない」
「ありがとう、嬉しいよ。でも、そういう樹だから私は心配なの」
「俺の心配はいいから」
「ありがとう。でも、私はそうしたいの」
「世話焼きだな。心配しなくても大丈夫だって」
樹はぼんやりと思い出した。お姉さん気質と葉月は言った。確かにそうなのかもしれない。
「私は樹にたくさん支えてもらった。本当に心が折れそうだったけど、樹がいたから今こうしていられる。私が本当に必要とした時に樹は側にいてくれた。でも、樹が本当に必要とする時に私は側にいられない。だから今しかないの」
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