第45話 2020年3月29日(日)

 智草はエレベーターを降りると、壁の鏡を見ながら手で髪を整えた。家を出る前に整えたばかりだったので意味は無かった。廊下を曲がり、目的の家の前で一呼吸する。手に持ったハンカチを一度だけ強く握るとポケットにしまった。決心が揺らがないように、そのままドアの横にあるボタンを押した。

「いらっしゃい」

 開いたドアの向こうから葵が顔を覗かせた。

「こんにちは」

「どうぞ」

 葵も智草の来訪には慣れていたので何も聞かずに家に上げた。

「おじゃまします」

 葵は何も言わずに親指で廊下に面したドアを指した。そのドアを智草がノックすると樹が出てきた。

「はい」

 前回同様に智草が両手を前に出すと、樹は消毒液をスプレーして部屋に入れた。

「どうぞ」

 智草がベッドに座ると、樹は部屋の対角線側に座った。

「突然襲撃してごめんね」

 断られないように連絡しなかった事は言わなかった。

「いいよ、日曜日はどうせヒマだし。日向の家で何かあった?」

「どうして?」

「それくらいしか用件が思い付かなくて」

「迷惑? 理由なく来たら」

「いやいや」

 樹が慌てて言った。

「来たいから来ただけだよ」

 樹を真っ直ぐ見ながら言ったが、あまり効き目はなかったようだ。

「実は聞いて欲しい事があって」

 智草は本題に入る事にした。

「俺で良ければ」

「あのね……」

 智草の耳の中で心臓の鼓動が鳴り響いていた。

「実は好きな子がいるの」

 この一言を絞り出すには大変な努力が必要だった。

「なになに?」

 野次馬根性丸出しの樹に智草は鼻白んだ。鼓動が正常になってきた。

「何で急に女子っぽくなるの?」

「そういう話って面白いじゃん」

「意外だね、恋バナに夢中になるタイプだとは思わなかった」

「で、どういう経緯?」

 急に本題に戻られて少し戸惑ったが、智草は続けた。

「昔、同級生だった子」

 収まったはずの鼓動がまたやかましく存在を主張してきた。

「って事はK小の奴?」

「そう」

 智草は自分の膝を見たまま答えた。

「誰?」

 明らかに他人事だと思っている。

「私が一人で困ってた時に助けてくれたの」

「どっかの脳筋みたいだな」

 智草は思い切って続けた。

「同じ登校班の子が」

「いきなり容疑者が一桁に絞られたな」

 完全に犯人探し感覚だ。自分以外の誰かしか念頭にない。

「うん」

 智草は視線を上げられなかった。

「日向みたく先生役でもしてもらった?」

「ううん、全然ない。それに私を助けたって自覚も無いかも」

「そいつ、鈍すぎない?」

「そうだね。本当に」

 下を向いたまま続けた。

「その時に言えば良かった」

「ふ〜ん」

 全く通じていない。智草は胸に痛みを感じた。

「私が知っているって事も知らないんだよ……」

 通じないもどかしさに後悔が混ざった感情が溢れ出して先が言えなかった。下を向いていたせいで顔が見えなくて幸いだった。声がかすれている事は自分でも分かっていたし、変な事を言ってしまったと悔やんだ。

「そいつ生きてるんだろ。今からでも言えば良くね?」

 返ってきた樹の答えはシンプルだった。

「え?」

 樹は智草の赤い目に気付かないふりをして続けた。

「言わないと後悔するよ。やってしまった事よりも、やらなかった事の方が後悔すんだよ」

「そうだよね……」

「それに今の話、二つの事がごっちゃになってね?」

「何で?」

「良く分からないけど、何か助けてもらったんだよな?」

「うん」

「助けてもらった事と好きって別の問題じゃない?」

 確かにそうだった。智草は答えられなかった。

「分からなくはないけど、それだけで好きって言うのは何か違うような気がする」

「そうかな」

「そいつに言ってないって事は始まってすらいないんだろ」

「……うん」

「まだ、好きどうこうの前の段階じゃないかな」

 智草は顔を上げられなかった。

「じゃあ、樹くんにとって好きって何?」

 樹はしばらく考えてから答えた。

「喜ばせたいと思う事、笑顔が見たいと思う事。それを見て自分も幸せな気分になれる事」

 迷いのない声に智草は顔を上げた。照れくさくなったのか、樹は横を向いていた。その横顔は智草が知っている少年の顔ではなかった。胸が強烈に締め付けられ、何も言えないままその横顔を見ていた。

「……そんなに引かなくてもいいだろ」

 樹の声に智草は我に返った。どうやら沈黙を違う意味に解釈したようだ。見ると樹が気まずい表情をしていた。少年の顔に戻っていた。

「引いてないよ、全然」

「ならいいけど」

「何だか大人っぽくなったね」

「そうかな?」

 智草はまだ胸に強烈な感覚を感じていた。もう無理だった。

「ありがとう。ちょっとスッキリしたよ」

 智草の笑顔を見て樹も安心した。

「なら良かった」

 樹も笑顔で答えた。その笑顔を直視できなくて智草は目を逸らした。目を逸らす直前に見た笑顔が脳裏に焼き付いて離れなかった。

「がんばれよ、智草はこれから始まるんだから」

 もうすぐ終わる者からの、これから始まる者への精一杯の応援だった。智草は横を向いていたので樹の表情の変化に気付かなかった。さっきのような笑顔ではなくなっていた。

「ありがとう。私、帰るね」

 智草は慌ただしくそう言うと、そのまま部屋を出た。後ろから左右対称でない足音がついて来た。玄関で靴を履く間も智草は後ろを見なかったが、背中を見せたまま退出するほど無礼に躾られていなかった。ドアを開けた所で振り向いた。

「お邪魔しました」

「じゃ、また」

 樹の顔を見た瞬間にさっきの感覚が蘇ってきた。どうにも止まらなかった。樹の肩越しに葵の姿が見えた。

「葵ちゃん、さようなら」

 笑顔で手を降りドアを締めた。その瞬間に走り出していた。動悸の激しさを感じた。


 廊下を足早に去って行く足音を聞きながら葵はスマホのロック画面を解除した。

『悠斗いる?』

 数分後に返事が来た。

『いるよ。何?』

『ちぐちゃん可愛そう』

『なんで急に?』

『いま来てた。あの感じだと何も知らないよ』

『樹?』

『そう』

『樹チャラいな。二股かよ』

『樹の方はまるで気付いてないね、あれは』

『秒で分かりそうなもんだけどな』

 悠斗は智草が来た時の事を思い出した。

『彼女しか目に入ってないんだよ』

『そっちは継続中なんだ』

『毎日甲斐甲斐しく通って尽くしてるよ』

『入る余地ないな』

『しかも病室が個室になったんだって』

『やりたい放題じゃん』

『男子ってそういう発想しか出てこないの?』

『違うの?』

『かなり良くないんだって』

『ますます重いじゃん』

『だよね。だから可愛そう』

『教えてあげたら』

『私の口から言える訳ないでしょ』

『葵はどうしたいの?』

『どうにもできない』

『なら放っとくしかないじゃん』

『そうだけどさ……そっちの進展はどうなの?』

『日向? 相変わらず毎日彼女を引っ張り込んでる』

『日向の方がチャラいじゃない。二人きりで部屋にいるの?』

『いや、ちぐちゃんも来てる』

『お部屋デートじゃないんだ』

『変わらないよ。どうせ二人きりでも進展しないだろうし』

『なにそれ? そんな事ある?』

『さあ、やった事ないから分からない。葵なら進展する?』

『私だってやった事ないんだから知らないよ。でも、そんな事になったらキャーーって舞い上がっちゃうんじゃないかな』

『他人事で妄想してないで自分が試してみればいいじゃん』

『他人事だからいいんじゃない。みんな自分の事には臆病なんだよ』

『へえへえ、そうですか』


「来週から学校だね」

 智草が淋しそうに言った。

「今年の春休みは長かったねえ」

 日向は学校に行かなくて良かったので満足そうだった。

「延期してくれないかな」

「やだよ、これ以上は。春休みは遊びまくるつもりだったのに、結局どこも行けなかったし」

 香澄は憤懣やるかたない。

「この会も終わっちゃうけどいいの?」

 智草が聞いた。答えは分かっていた。

「それは……ちょっと残念かな」

「ははは、なら続けるしかないね」

 智草が当然のように言った。

「どういう理由で?」

 香澄が諦め気味な口調で言った。

「え? そうしたいからに決まってるじゃない。香澄ちゃんはもうここに来たくないの?」

「そういう訳じゃないけどさ……」

「だよね〜。日向くんは?」

「ずっとこのままがいいかな」

「だよね〜」

「智草、どうしたの?」

 香澄が聞いた。

「え?」

「妙に明るくない?」

「ははは、ちょっと新たな発見があってね」


「登校班って言っても一年生から六年生までいるじゃん。でも高校生にもなって小学生相手ってのはあり得ないから、二学年差位が限界だろ。そうなるともう五人くらいしか残らないんだよ」

 さくらはムカムカしながら聞いていた。

「それで樹はどう思ってるの?」

 引っ掛け問題だったが、樹には全く通じなかった。

「俺に相談して来たって事は、俺も知っている誰かで間違いないんじゃないかな」

「そうね」

 その気がまるでない事に安心はしたが、不快の度は増した。縄張りを荒らされている動物の気分だ。しかも縄張り自身には荒らされているという自覚が全くなかった。

「だから前にも言っただろ、違うって」

 目の前にいたら足を踏んでやりたかった。これ以上聞く気になれなかった。

「それであっちの二人の進展はどうなの?」

「新学期始まっても通い婚は続けるみたいだよ」

「その言葉の意味分かってる?」

「この一ヶ月でかなり進展した気がするんだけどな」

「意外。そう思ってるんだ?」

「同じ高校ってのが大きかったな。違ったらこうはならなかったんじゃないかな?」

「一緒に努力した甲斐があったね」

「いいよな……」

「ん?」

「努力で一緒にいる時間を勝ち取れるって。そう信じられるあいつが羨ましい」

「そうだね」

「俺、最近凄く弱くなっててさ。昔は本気でやれば何でも出来る、不可能はないって思ってたのに、今はそんな気が全然しなくて。すっかり弱くなって……怖くて……」

 さくらは一呼吸してから言った。

「ようやく本音を言ってくれたね」

「……ごめん」

 バツが悪そうに謝った。

「さくらが一番怖いのに何言ってるんだって話だよな」

「私が怖いから樹が怖がっちゃいけない訳じゃないよ。前言ってたじゃない。お互いに相手の事を思って、お互いに嘘つきあって、お互いに隠れて泣いてるって。同じ事しなくていいんだよ」

「そんなつもりは」

「私は一人で怖がるよりは誰かと一緒に怖がる方がいい。一人は嫌……」

「一人にはしない」

「この前、夢を見たって言ったの覚えてる?」

「うん」

「本当は覚えてたんだ、続き」

「そんな気がしてた」

「気付いてたんだ」

「言いたくないなら言わなくていいよ」

「今なら言いたいかな」

「ならいいよ」

「朝、一緒に登校したじゃない。その後」

「うん」

「学校に入った瞬間に皆から私が見えなくなるの。それも、さくらはどこへ行ったって感じじゃなくて、まるで最初からいなかったみたいなの。四人で楽しそうに話しているのに、私にだけ気付かないの。大声で皆に話かけるんだけど全く聞こえてなくて。いつもの日常から私だけがいなくなっているの」

 ある日突然消える。以前さくらが発したその一言に全てが込められていた事に樹は気付いた。

「忘れられるのが嫌。最初からいなかった事にされるのが嫌。存在そのものが消されるのが怖い」

 画面の中でさくらが布団に顔を伏せた。

「俺は忘れない、絶対。俺が生きている限りさくらの存在は消えないよ」

「ありがとう。だから樹はちゃんと生きて。それが私がここにいたっていう証拠だから」

 さくらの呼吸が少し苦しそうに見えた。

「無理しないようにな」

 画面の中のさくらに向かって言った。

「うん。でも、樹の顔が見たい。声が聞きたい。一分でも多く一緒にいたい」

 さくらのスマホはどこかに固定してあるようだ。画面が全く揺れなかった。さくらの両耳から白いイヤフォンのコードが垂れ下がっているのが見える。その時、樹にアイデアが浮かんだ。

「どうせwi-fiなんだから今夜から回線繋ぎっぱなしにしようか、一晩中。無理して話さなくてもいいよ。顔が見えて呼吸音が聞こえるだけでも」

「それじゃ、これからは毎晩話しながら寝落ちだね。樹の夜這いがエスカレートしてる」

 さくらが嬉しそうに言った。

「何で?」

「入院中は少なくとも寝る時は自分のベッドに戻ってたじゃない」

「うん」

「今度は帰らずに居座るんだよね?」

「そういう事になるのかな」

「きゃーー、ケダモノが一晩中私のベッドに!」

 さくらが毛布を引き上げて顔を隠した。足をバタバタさせているのか、画面全体が揺れた。

「表現!」

「ふふっ」

 毛布から顔を出してさくらが笑った。

「ならケダモノしてやる」

「何?」

「繋げっぱなしにするって事はカメラとマイクが一晩中生きてるって事じゃん」

「当たり前じゃない。そうじゃなきゃ意味ないし」

「寝顔を楽しみにしてるよ」

 さくらがまた目の下まで毛布に潜った。両手の指と目から上だけが毛布から覗いていた。

「この変態」

「寝言で変な事を言わないようにな」

「樹こそイビキで夜中に起こさないでよ。それからエロ禁」

「自分が言い出したんじゃないか」

「私はいいの。樹はエモで」

「毎朝最初におはようって言えるとか?」

「分かってるじゃない」

「おはようのキスがないのは残念だけど」

「……ちょっと微妙」

「ハードルどんどん上がってない?」

「女の子を喜ばせる言い方を研究してきなさい」

「この春休みは宿題は無いはずなんだけど」

「なら、ちょうどいいじゃない。春休みの自由研究、」

 さくらが言いかけた所へ樹が差し込んだ。

「さくらの観察日記」

「やり直し!」

 急に沈黙が支配した。怒ったのだろうか。

「さくら?」

「ちょっと眠くなって来ちゃった」

 時計を見るとまだ八時半だった。

「最近やたら眠いんだよね。成長期かな?」

 もちろん嘘だ。短時間の会話でも疲れやすくなっている。

「寝たら?」

「うん、そうする」

 さくらは素直に従った。相当しんどい様だ。

「おやすみ、さくら」

「おやすみ、樹」

 いつもの癖で通話を切ろうとして思いとどまった。今夜から切る必要はないのだ。

「そうそう、樹?」

「ん?」

「恥ずかしいから寝顔あんまり見ないでよ」

「はいはい」

「絶対だからね」

「分かった、分かった」

「おやすみ」

「おやすみ」

 そう言って通話を切らないのは奇妙な感覚だった。その晩、樹は約束を守らなかった。遅くまでずっと画面の中のさくらの寝顔を見ていた。指先で画面に映るさくらの顔の輪郭を何度もなぞったが、得られる感触はさくらの頬の柔らかさではなく、硬いディスプレイの感触だった。

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