第46話 2020年3月30日(月)

「おはよう」

 樹が目を開けた瞬間に画面のさくらが言った。一瞬状況が理解できなかった。

「おはよう」

「もう九時だよ。昨日は何時に寝たの?」

「覚えてない。さくらは何時起き?」

「七時。習慣だね」

「二時間も何してたの?」

「樹の寝顔を眺めてた」

 画面のさくらがニヤニヤしていた。

「ヨダレ垂らして可愛いかったよ」

「人には寝顔を見るなって言っといて」

「だって言ったじゃない。最初におはようを言うって」

「それで二時間ずっと待ってたの?」

「他にする事ないし」

「マジか、ずっと見られていたのか」

「そうだよ、恥ずかしいでしょ?」

「うん」

「それに……」

「何?」

「樹、約束守らなかったでしょ」

「何の事?」

「こんなに寝坊するって事は夜遅くまで起きていたんでしょ。何してたの?」

「えーと、動画を見てた」

 嘘ではないが、追及は止まらなかった。

「ふーん。何の動画?」

「……さくら」

「その動画、ライブカメラでしょ?」

「はい……」

 暫く沈黙した後、突然さくらが大笑いを始めた。

「もー、本当にアニマルだね。安心して寝てられないよ」

「幸せな気分になるんでつい……」

 樹がそう言うとさくらはまた沈黙した。その後少し恥ずかしそうに答えた。

「いいよ、見て。幸せな気分になるんでしょ? 私もだよ。だからずっと見てたの」

 樹の口元が緩んだ。画面のさくらは嬉しそうだった。

「さっそく学習してるじゃない、女の子を喜ばせる言い方」

「いや、そんなつもりで言った訳じゃ……」

「残念。それ、言わなければ完璧だったのに」

 さくらは樹に午後から病院に来るように伝えた。午前中はやらなければならない事があった。


「さくらちゃん!」

病室のドアが開き智草が入って来た。さくらが最後に会いたいと言ったら飛んで来た。

「来てくれてありがとう」

「ねぇ、本当なの?」

 泣き顔になっていた。ここに来るまでの道中で既に泣いていたのだろう。

「本当。自分の体だから何となく分かるんだ。あと数日だと思う」

「そんなの……」

 感情が堰を切って溢れ出した。初めての事態に気持ちの整理が追いつかなかった。

「こんな時に来させてごめんね。今日が最後のチャンスだから、どうしても会いたかったの」

「いいの……呼んでくれてありがとう」

 智草の涙はまだ枯れるには遠かった。

「どうしても頼みたい事があったの」

「何? 何でも言って」

 智草が顔を上げて泣き腫らした目でさくらを見た。その目をじっと見ながらさくらは心を決めた。この先を言えば智草とは二度と元の関係には戻れなくなると分かっていた。さくらは目を落とし自分の手の甲を見ながら続けた。

「私がいなくなった後……」

 その一言で智草の目からさらに涙がこぼれたが、次の一言でその目が大きく見開かれた。

「お願い、樹を助けて」

 智草は鈍くはなかった。呆然とさくらの横顔を見つめた。顔の横に視線を感じながらさくらは続けた。

「私は人が亡くなる所を沢山見ているの。だから私がいなくなった後に樹がどうなるかも分かるの」

 智草は無言だった。正面を向いたままのさくらからはその表情は分からない。

「樹は見た事がないから知らない。心の準備もできていない」

 さくらは罪悪感をひしひしと感じながら続けた。

「大切な人を失うと、その人の一部も一緒に死ぬの。みんなしばらくは生きた死人になって人生をさまようの。その後どうなるかはその人次第。でも樹は立ち直れないと思う。素直に泣けないから、痛みに正面から向き合えない。自分一人で何とかする事しか知らないから、人に助けを求められない。溺れたら一人で苦しんで、やがて力尽きて沈んで行く事になる」

「どうして。何で樹くんが立ち直れないの?」

 自分の頭に浮かんだ事を否定して欲しいという智草の儚い願望が込められていた。さくらの胸の中のしこりがさらに膨らんだが、とどめを刺した。そうしなければ先に進めなかった。

「もう、分かっているでしょ」

 初めてさくらは智草の方を見た。泣き腫らした目が呆然と見つめ返していた。

「嘘……」

 二重のショックに智草の目から止めどなく涙が流れ落ちた。

「本当よ」

「いつから?」

「二月」

 追い討ちだった。自分には最初からチャンスなどなかったと思い知らされた。

「…………私、馬鹿みたい」

 智草は顔を伏せ、顔を上げずにさくらに聞いた。

「ピエロが踊る姿を眺めてて楽しかった?」

 声には怨嗟が満ちていた。

「いいえ。そんな感情ないわ」

「優越感に浸れた?」

「逆よ。劣等感しか感じない」

 完全に真実ではなかった。裏切りの苦い報酬、銀貨三十枚を思い出した。

「何で?」

 智草の言葉には憎しみがこめられていたが、さくらは意に介さなかった。

「あなたは私が持っていない物を全て持っているから」

 智草が顔を上げた。

「死ぬ時はこの世で手に入れた物は全て置いて行かなければならないの。誰でも知っている当たり前の事だけど、それを本当に実感できるのは自分の番が回って来た時。手ぶらでやって来て、手ぶらで去る。それが決まり。だけど一つだけ持って行く物があるの」

 智草が何も言わないので、さくらはそのまま続けた。

「それが大切な人の一部。大事にされた思い出や愛された記憶、それだけが唯一許された持ち物。でも代償は大きいの、人によっては立ち直れなくなって人生そのもので支払う事になる」

「それがさっきのお願い? 後始末を私にしろって、そんな事を頼めた義理?」

「確かにそうだね。お願いは忘れて」

「そうだよね、便利な樹くんはもう用済みだしね」

 智草は嫌味に憎悪と怒気を混ぜて投げつけた。

「いいえ。お願いする必要が無いだけ」

「どうして?」

「あなたは自分が何を欲しがっているか分かっているから」

「私があなたの曲に合わせて踊るとでも思っているの?」

 新たな憎しみが湧いてきた。

「そんな事は期待していないよ。私の物語はもうすぐ終わる。その先は私が登場しないあなた達の物語。だから好きなように踊って。私はどう踊るのかが分かればそれで十分」

「私の何が分かるの? あなたが現れる何年も前から私は彼の事を見ていたの。後から出てきて知ったかぶらないで」

 さくらは智草の視線を正面から受け止めて答えた。

「見ていただけでしょ。後からやって来たのはあなた」

 今度は愉悦は感じなかった。報酬は二度は支払われない。

「何よ」

「同窓会で三年ぶりに会ったんでしょ? それは三年間何もしなかったって事じゃない。ずっと同じ建物に住んでいたのに」

「だから何?」

「ならば今から三年間、樹と合わずに同じように過ごせる?」

「……」

 さくらは大きく一呼吸した。少し呼吸の乱れを感じていた。

「どっちが早かったかで勝負したい訳じゃないの。今のあなたは同窓会の頃のあなたとは違うって言いたいだけ」

「どう違うの?」

 智草の口調は変わらず棘々しい。

「樹が好き」

「あなた誰? 人の心が読めるつもりになってるの?」

「心を読む必要なんかないわよ。やる事が浮ついていたんだもの。樹の事は気になっていたのかもしれないけれど、狩りを楽しんでいるだけだったって事は分かるわ」

 智草が睨みつけていた。

「でも好きになるってそういう事じゃない。あなた自身も分かっている事じゃない。本気になると胸が苦しくなる。失うことに臆病になる。ちょっとした事で喜んだり、ささいな事で傷ついたりするようになる」

 ここでまた一呼吸した。長く話すのは辛かった。

「だから私はあなたを信じる事にしたの」

「それは光栄ね」

「嫌味じゃないわよ。私が嫌な奴なのは認めるけど」

「本当にそうね」

「好きの本当の意味は幸せにしたいと思う事。でも、それは相手のために願う物じゃなくて、自分のためにそうしたいと思うだけ」

 さくらはまた一呼吸おいて続けた。苦しそうだった。さくらが樹と全く同じ言葉を発した事に智草は苦々しい思いをしていた。あれ程胸を高鳴らせた言葉が今では自分を切り刻む刃物に変わっていた。

「本当は全員を幸せにできれば一番良いのだけど、私はピザじゃないからそれはできない。だから私は自分が一番そうしたいと思った物を優先したの。自分本位の言い訳はしないわ。私は自分の事しか考えない嫌な女なの」

 智草は無言でさくらを見つめると窓の外へ目をやった。曇っていたが、朝の空気が爽やかだった。惨めに切り刻まれて泥にまみれた気分だった。ようやく理解した、この二人は自分のために相手の幸せを願っている。智草は自分のために自分の幸せを願った。

「嘘だよ」

 窓の外を見たまま、ぽつりと言った智草の言葉からは先程までの感情の高ぶりが消えていた。

「本当に嫌な奴ならそんな事は言わない。自分がいなくなった後の樹くんの心配もしない」

「私があなたにした事を忘れてない?」

「忘れてない。でも、私だったら自分の事しか考えないから一緒に死んでって言う」

「嘘。あなたは言わない」

「何で? そう思うのが普通だよ。彼を自分のものにしたいと思わないの? 綺麗にラッピングして、リボンかけて、どうぞって人に渡せる?」

 さくらの手が膝の上の毛布を握りしめた。

「樹の笑顔、思い出せる?」

「何の話?」

「私、あの笑顔が好きなの。目を細めて歯を見せる時に首を少し傾げる癖があるでしょ」

「良く見てるのね」

 智草は不快を感じたが、それが嫉妬だとすぐに気付いた。

「小学生みたいな顔になるでしょ」

「そうね」

「もうすぐ樹はあんな風に屈託なく笑う事はできなくなる。私のせいで」

「で、お気に入りの笑顔は永遠に自分のものって訳?」

 嫉妬が嫌味を言わせた。

「自分の手で幸せにできるならそうしたいよ。誰にも渡したくない」

「それが普通でしょ」

「でも自分の手で不幸にするのも嫌。樹には樹のままでいて欲しい。お馬鹿な樹のままでいて欲しい。でも私に両方は取れないから、どっちかを選ぶしかないの」

 智草は自分が恥ずかしくなったが、同時にそれをさくらにだけは見せたくないと感じた。

「私にはもう時間がない」

「台本通りに進む保証はないわよ。私にはなんの義理も無いんだから」

 また嫉妬が言わせた。

「そう、無いわね。でも樹は何の義理もないあなたを助けた。何も言わずに」

「嫌な所を突くのね。言わなきゃ良かった」

 それでもさくらの言葉に効果はあった。燃え盛っていた嫉妬が勢いを失った。

「大丈夫よ。私はもう長くないし、あなたの周りにその事を知っている人間はいない。樹を見捨てた所で誰も責めたりしない。あなたしか知らない棘となって一生心に刺さり続けるだけ」

「嫌な言い方するわね」

「言ったでしょ、嫌な奴なんだって。でも、そう思うって事は少なくとも借りは認めている訳でしょ」

「分かったわよ。でも廃人にすがられても私ができる事なんて限られてるわよ」

 精一杯の意地だった。

「すがらないよ、樹は。だから心配なの」

 そう言ったさくらの横顔を見て敗北感が胸に満ちてきた。

「でも何で私?」

 今度は答えるのにしばらく時間がかかった。

「正直言うと分からない。そう感じただけ」

 言い方に迷いがあった。

「理由になってないじゃない」

「あなたも自分に嘘をつけない人って気がするから。目の前に望むものがあれば、必ず手を伸ばすと信じている」

「本当に望むものならね」

「そう。それが一番の問題だったの」

 さくらはオレンジ色に染まった雲を見た。

「一つだけ最後に質問をさせて」

 雲から目を離し、さくらは智草の目を見た。

「ねえ、あなたはどうしたい?」

「教えない」

 智草の目をさくらが見た。暫くの視線が絡み合い心を読みあった。

「それでいいわ」

「もういいでしょ、帰る」

 智草が椅子から立ち上がった。その後、少し迷いながら付け加えた。

「元気でねって言うのもおかしいよね」

「私が言うのは構わないでしょ」

 さくらの答えにシニカルさはなかった。

「そうだね」

 病室のドアを開けて去ろうとした所で智草が振り返った。

「ところで、どうして私はここにいるの?」

「え?」

「何も言わなければ全て目論見通りに運んだかもしれないのに、どうしてわざわざ私に話したの? 意味のないぶち壊しだよ」

 さくらは悪事が露見した子供のように下を向いて答えた。

「意地悪したかったんだと思う」

「どうして?」

「妬ましいから」

 さくらは顔を上げて智草を見た。

「なのに何も知らないままなんて許せなくて意地悪しちゃった」

「ははは、意地悪しすぎ」

「そうだね。ごめん」

 さくらは自分の手の甲に目を落とした。

「もう一度聞くけど」

 智草は手元に目を落としたままのさくらに言った。

「本当にそれで割り切れるものなの?」

 さくらは無言のままだった。智草は立ったまま何も言わず、さくらを見ていた。部屋の外からは変わらず病院の喧騒が聞こえてくるが、部屋の中では全ての音が死んでいた。そのまま一分以上経ってからさくらが口を開いた。

「割り切れる訳……ないじゃない」

 手の甲に静かに雫が降り注いだ。音は死んだままだった。

「私達は始まったばかり」

 声が変わっていた。

「時間が欲しい……」

 さくらはしゃくり上げるように嗚咽し始めた。智草はベッドサイドに戻ると、何も言わずにさくらの頭を自分の胸に抱き寄せた。智草の胸に顔を埋めたさくらは声を上げて泣いた。最後に声を上げて泣いたのがいつだったか思い出せなかった。智草も一緒に泣いた。


 香澄はテキストの図を指差していた。窓から入る夕日で白い紙面がオレンジ色に染まっている。

「日向、これなんだけどさ」

「ん、どれどれ?」

「ここが十五度ってだけじゃ長さ出せなくない?」

「ん〜〜」

 日向は図を見ながら暫く考え込んだ後、図に線を一本書き足した。

「ここに引けばいいんじゃない?」

「ん? ちょっと待って……」

 香澄が考え込んだ。

「三十度、九十度だから三角定規と一緒になるのか」

「え? こことここが平行だから同じ角度になると思ったんだけど……」

「あ、ホントだ。そうすれば良かったのか」

「でも香澄の考え方も間違っていないと思うよ。その方法でも同じ結果になるはずだよ」

 向かいに座っている智草がその様子を眺めていた。午前中の衝撃から立ち直れていなかった。この二人のほのぼのとした様子はざわついた心をいくらかは沈めてくれる。

「自然に出るようになって来たね」

「全然自然じゃなかったじゃない。どこに線引いたらいいかなんてどうして分かるの?」

「補助線の事じゃないよ。普通にって呼んでたね」

「それはそれで結構がんばって呼んでいるんだよ」

「そお? 何だかいい感じだったよ。傍目には付き合ってるようにしか見えないよ」

 智草は首をかしげて顔を近づけると香澄をまじまじと見た。

「あれ、赤くならないんだ?」

「もう予防接種済みだよ」

「ああ……あんなに可愛かったのに」

「からかうな。いつまでも同じ手は通用しないんだよ」

「ふうん。でも新学期になったら、事情知らない人達から絶対に聞かれるよ。何て答えるつもり?」

「それは……」

 香澄が日向の方をチラッと見た。日向は気付かなかったようだ。

「さすがに変な事は言えないよね。おな中でいいんじゃない?」

 香澄の表情は変わっていないが目を伏せた事に智草は気付いた。

「ちょっとトイレ行ってくる」

 香澄はそそくさと部屋を出て行った。

「日向くん、本当にそれでいいの?」

 智草は日向に向き直った。

「他に言いよう無いじゃん」

「それ、この子フリーだからご自由にどうぞって言ってるのと同じだよ」

「確かにフリーだよね」

 日向はいつも通りだったが智草は今日に限って何故こんなに腹が立つのか自分でも分からなかった。恐らく午前中の事が原因だろう。こんなに思われているのにそれに応えようとしない日向が許せなかった。選ばれない悲しさも、受け取ってもらえない思いの辛さも、何も分かっていないのが腹立たしかった。

「いいの? 一年生女子は一番人気だよ。すぐに二、三年生が群がって来るよ」

「女子校なのに詳しいね」

 日向にそんなつもりはなかったのだが、智草は共学校を知らないお前に何が分かると言われたような気がした。

「女子校は毎年文化祭には男子が大勢来るんだよ。二年生って答えるとスーっと引いてくクセに、一年生って言うだけで態度が全然違うんだよ。あまりの露骨さに笑えるよ」

「へええ」

「で、日向くんは香澄ちゃんをそんな一女マニアに差し出して平気なの?」

「彼氏でもない俺が何を主張できるの?」

「そういう事を聞いてるんじゃないの。想像してみなよ、誰かが香澄ちゃんに付き合おうって迫ってる様子を。心ざわつかない?」

「それ、俺にどうしろと?」

「逃げないで。心がざわつかないかって聞いてるの」

「どうしようもないじゃん。決めるの俺じゃなくて香澄だし」

「じゃあ、香澄ちゃんの手を思い出してみて。誰かがそれを握っても平気でいられるの? 触らせたくないって思わないの?」

 日向は黙り込んでいる。

「香澄ちゃんが日向くんを見る時の目を思い出して。あんな目で見てもらえるってだけでも幸せなんだよ。他の誰かをそんな目で見て欲しいの? 自分だけを見て欲しいって思わないの?」

 妬ましくて八つ当たりしているだけだと分かっていたが、それでも止められなかった。下を向いたまま何も言わない日向の姿が更に怒りを掻き立てた。冷たい声で言い放った。

「分かった。本当は全部分かってたんでしょ。どっちつかずの態度でズルズルと引き伸ばして、曖昧な関係に浸っているのが気持ちよかったんでしょ」

 智草は心から自分が嫌になってきた。せめてもの罪滅ぼしに日向の背中を押す事にした。口調を和らげた。

「でも、いつかはそれを卒業しなきゃいけないんだよ。残念ながら、もう時間切れだよ」

 ここまで言われても日向は微動だにしない。

「どうするの? 今なら手を伸ばせば届く場所にいるんだよ。掴むの? それとも諦めるの?」

 智草も日向も二センチ程開いたドアの外に立っている香澄には気付いていなかった。トイレは一階にある。二人とも部屋を出た香澄が階段を降りて行く音がしない事に気付いていなかった。

「……分からない」

 絞り出すように日向が言った。智草は軽蔑の眼差しで下を向いた日向の頭を見ていた。また怒りが戻ってきた。

「卑怯者」

「俺だって何も考えなかった訳じゃないよ。俺の立ち位置が何なのか」

「何言ってるの? 香澄ちゃんの気持ちも本当はずっと前から知ってたんでしょ」

「信じられる訳ないだろ、そんな話」

「信じる勇気がなかっただけでしょ。あれだけ分かりやすい子で、周りからも散々言われて。今が一生に一度の正念場だよ。ここで逃げたらまだ会った事もない誰かに確実に取られるよ」

「友達でしか無い俺にやめとけなんて言う権利ないじゃん」

「何の権利? まだ逃げるの?」

「どうしようもないじゃん。付き合ってる訳でもないのに」

「本当に最初からその気なかったの? なら……」

 音がして智草が振り向くと、香澄が無言で部屋に入って来た。そのまま何も言わずにポーチだけ取ると部屋から出ていった。階段を降りてゆく足音が聞こえる。

「……追いかけなよ」

 智草が言った。これは自分のせいだ、何とかしなければ。だが日向は固まったままだった。

「今行かせたら二度と戻って来ないよ。いいの? このまま終わっても」

「大袈裟だよ」

「まだ分からないの? 今しかないんんだよ。次なんかないよ」

 日向は目を上げ、智草を見て一言だけ言った。

「踏み込みすぎ」

 日向はゆっくり立ち上がると部屋から出ていった。

「トイレ行ってくる」


 定位置のソファーに寝転んでいた悠斗は階段を降りてくる足音に目を上げた。ゆっくりと香澄が通り過ぎて行った。手で目を抑えている。急ぐ様子はない。そのまま静かに玄関のドアを開けて出ていった。二階の会話は筒抜けだった。悠斗はうんざりと溜息をついた。聞いてて気分が良くなる会話ではない。続いて日向が階段を降りてきた。同じく悠斗の前を通り過ぎて行く。トイレの前で日向が少し躊躇している様子が見えた。たった今香澄が出ていった玄関とトイレを交互に見ている。

「俺には関係ないのは承知してるんだけどさ」

 日向がトイレのノブを掴んだ瞬間に悠斗が声をかけた。

「なら何も言うな」

 トイレのドアを凝視したまま、日向はもう沢山だと意思表示した。

「ちぐちゃん、能書き多すぎね?」

「全くだな」

 目線が手元のノブに落ちた。

「シカトしとけよ、もっと単純でいいじゃん」

「ああ」

「好きなんだろ?」

 日向の視線がノブから悠斗に移った。

「ずいぶん分かりやすい奴になったな。彼女に似てきたんじゃね?」

「遊ぶな。気分じゃない」

「なら、したいようにすればいいじゃん」

「そんな単純じゃないんだよ」

「単純だよ。日向はどうしたいんだよ?」

 回答は無かった。悠斗は寝転んだまま姿勢を直した。

「能書きは多かったけど、俺もその通りだと思うよ」

 日向は微動だにしなかった。

「明日は無いよ。ついでに言うと、トイレに行ってからも無い」

 日向の視線が玄関のドアに向いた。

「彼女、足早いんだろ?」

 悠斗がチラッと壁の時計を見た。

「出て行ってから約六十秒。今すぐ追いかけないと見失うぞ」

 視線を戻した悠斗に見えたのは閉まる玄関のドアだけだった。


 八島家を出た香澄は右を見た。家の方向だ。左を見ると智草と樹の一家が住んでいるマンションが見えた。左へ向かって歩いた。このまま家に帰る気分ではなかった。ゆっくりとした歩みが徐々に早足になり、大通りに出た時には小走りになっていた。大通りを左に曲がると駅前だ。駅前は誰に会うか分かったものではない。今は誰にも会いたくなかった。隅田川へ行こう。右へ曲がった。


 玄関を出た日向は大通りを右へ曲がる後ろ姿を見た。走っている。慌ててそちらへ向かった。思っていた以上に距離が開いている。香澄に本気で走られたら追いつけない。慌てて最後に後ろ姿が見えた角を曲がると、遠くに背中が見えた。三ツ目通りの赤信号に捕まっていた。交番の目の前なので無視して渡る事はできなかったのだろう。日向は後を追った。

 信号が青に変わると香澄は急がず歩いて通りを渡った。信号待ちの間に気分が冷めていた。交差点を渡った所にあるコンビニの前で植込の影に座り込み、膝を抱えて顔を埋めた。次の赤信号に捕まった日向はコンビニの前を見ていた。植込は低く、座り込んだ香澄の頭が見えていた。信号が青に変わったので日向は横断歩道を渡り、植込に近づいた。反対側には座り込んだ香澄がいる。香澄まであと二メートルの場所まで来て足が止まった。どう話しかけるか考えていなかった。こんな時にはどうしたら良いのか分からなかった。植込越しに覗き込むと、香澄は膝に顔を埋めている。しばらく横に立っていたが気付く様子はない。仕方なく隣に座った。十分程してから香澄が顔を上げた。視界の端に気配を感じたのか日向の方を向いた。

「やあ」

 どう声をかけて良いか分からないまま日向はとりあえず言った。

「何?」

 香澄は目を落とした。腫れた目で何をしていたのかは明らかだ。

「追いかけてきた」

「そう……」

 お互い何を言ったら良いのか分からず黙り込んだ。間にきまずい沈黙が流れる。暫く経ってから日向が意を決して口を開いた。

「智草と悠斗の二人から言われた」

 声が少し裏返っている。

「今しかないって。だから追いかけて来た」

「あっそ。日向の意思じゃないんだね」

 そういう声は無気力で死体になったような気分だった。心と体が芯まで冷えきり、景色は色を失っていた。肺を出入りする空気は砂のようで、血管は何も運んでいなかった。心臓の鼓動も感じられない。

「俺がそうしたかったからだよ。前に言ってたじゃん。それを失った時を想像してみろって」

「失うもなにも。何を彼氏みたいな事言ってるの」

 一年分の報復だった。もうどうでも良かった。何も感じない。一方、言われた日向は急所を抉られる痛みを感じた。香澄の言葉でこんなに傷付けられた事はなかった。

「ごめん……」

 香澄は謝罪を違う意味に解釈した。

「私は大丈夫だからもう帰ったら?」

 無表情に言った。

「そんな顔してるのに一人で置いて行ける訳ないだろ」

「この辺なら知り合いはあまり来ないし大丈夫だよ」

「そういう問題じゃないだろ」

「家に帰るくらい自分でできるよ。放っといて」

 目の前で香澄の心のドアが閉じられ、鍵をかけられたのが分かった。今になって失われた数々のチャンスを悔い、自らそれを放棄した自分を責めた。それでも帰る気にはなれなかった。香澄の腕を掴んだ。

「何?」

「せめて顔くらい洗って行こう」

 日向は立ち上がって香澄の腕を引いた。香澄は抵抗せず大人しく日向について行った。コンビニの先の坂の途中に公衆便所がある事は二人とも知っていた。日向は香澄を引きずるように連れて行った。香澄は顔を洗いに行くと三分で戻って来た。泣き腫らしていた目と顔はきれいになっていた。

「行こうか」

 香澄はそう言うと、今来た方向へ足を向けた。背中を向けた香澄の腕を日向が掴んだ。

「何?」

 感情が麻痺していた香澄は驚かなかった。

「いや……」

 このまま行かせてはいけないと直感して思わず腕を掴んで止めてしまったが、続ける言葉は何も持っていなかった。とにかく行かせたくなかった。今背を向けさせたら二度と振り返らない事だけは分かっていた。

「ねえ、何がしたいの?」

「俺は……その……」

「私は帰りたい」

 疲れ切った声に日向は何も言えなかった。香澄は顔を伏せたままだった。

「もう……いいでしょ?」

 その声がかすれた鼻声になっている事に気付いた。

「よくない」

 それだけ言うと香澄の頭を胸元に抱き寄せた。

「離して」

 無気力な体は力で振りほどこうとせず言葉だけで抗議した。

「いやだ」

「こんなの……」

 香澄は麻痺していた感情が戻ってくるのを感じた。体に熱が、視界に色が戻ってきた。肺が蒸気で満たされたように感じ、こめかみの血管を血液が流れる音が聞こえた。動悸の激しさで呼吸が少し苦しい。

「ズルすぎるよ、この卑怯者」

 腕を日向の腰に回し胸に強く額を押しつけた。うつむいたせいで涙が地面に降った。

「そうだよね」

「ねえ、日向はどうしたいの?」

「したいようにしていい?」

「私が一度でも断った事あった?」

「ない」

「でしょ、だって一度も言われた事ないもん」

 鼻声がひどくなっていた。

「ちゃんと言ってよ」


 玄関ドアが開く音が聞こえた。悠斗が目を上げると日向と香澄が入ってきた。二人の間の空気を見て大体の想像ができた。日向と目があった。

「悠斗、礼は言っておく」

 兄が弟に言った。

「但し、人に言った以上は自分も同じようにしろよ。俺は気付いてるからな」

 誰にも知られていないつもりでいたので悠斗は驚いた。

「何の話?」

 香澄が怪訝そうに聞いた。

「ん、気にしないで。こいつも色々あってね」

 それだけ言うと日向は香澄と二階へ上がって行った。

「おかえり」

 ドアが開くなり智草が日向を睨んだ。

「ただいま」

 その後から入ってきた香澄を見て智草の表情が和らいだ。その顔を見た瞬間に悠斗以上に敏感に察した。香澄がバツの悪そうな顔をしている。智草は口元が緩むのを止められなかった。

「あら、そう。へえーー」

「何よ?」

 香澄が言い返した。

「ふうん、そうなんだ?」

 智草は首をかしげながら香澄の顔を覗き込んだ。

「だから何よ?」

「ははは、今ここで言っていいの?」

 耳まで真っ赤になったのですぐに分かった。

「やっぱり。いいなーー」

 今度は日向まで真っ赤になった。

「君たち、本当に分かりやすくて可愛いねーー」

「さらさないで」

「まあまあ。今日はいいものが見られて満足だよ」


『葵』

 悠斗がメッセージ送ると返事がすぐにきた。

『なに?』

『日向がやらかした』

『え、どっちのやらかし?』

『両方。彼女が飛び出して行って終わったと思ったら、後を追いかけて二人で仲良く帰って来た』

『喧嘩して仲直りしただけって事はないよね?』

『いや。あれは絶対にやった顔だ』

『……もう少し表現考えて』

『言いたい事は分かるだろ?』

『確定?』

『絶対そうだと思う』

『何か言ってた?』

 悠斗は日向に言われた事を思い出した。

『……いや、何も』

 そう返信しながら顔が少し熱くなった。


 樹はベッドに寝転んでさくらと通話していた。

「良かった。一大ニュースだね」

 さくらが嬉しそうに言った。

「俺がいない間にそんな展開になっているとは思わなかった。見たかったなあ」

「私も見たかった。中継してくれればいいのに。でも誰も見てないのに何で分かったの?」

「空気中に匂いがプンプン漂ってたらしい」

「……誰から聞いたの、その下品な表現?」

「日向の弟。それで気付いて白状させたって、そんな感じの事を言ってた」

「どうもまとめ方に問題があるようね。本人達からは?」

「どっちも恥ずかしがって詳しく言わないけど、場所だけは吐かせた。隅田公園」

「夕日の隅田公園なんて日向君も素敵な場所を選んだわね」

「偶然らしい。しかもトイレの前」

「……あの子たち、それでいいの?」

「バラしてやる。永遠の愛はトイレで始まったって」

「それはやめてあげて。それから永遠の愛はブライダル業者の宣伝文句だよ。元々死が二人を分かつまでっていうのは契約の有効期限だったんだよ。誓いは半永久的に人を拘束するものじゃなくて、どちらかが死ぬまでの間だけ有効な契約なんだよ」

「何と言うか……ドライだな」

「私も知った時は嫌な気分になったよ。夢が壊れるよね」

「何でそんな契約?」

「今よりも生存が厳しくて、一人で生きていけるような時代じゃなかったから」

「現代人には関係ないでしょ」

「物理的にはね。私も樹と会うまではそう思っていたよ」

「俺のせいでドライな気持ちになった?」

「逆だよ。約束したでしょ、私の墓標にはならないって」

「……ごめん」

 樹は自分が何故謝ったのか分からなかった。

「樹に思われて嬉しくない訳じゃないんだよ。でも今日と同じ日が明日も明後日も続く訳じゃない。私達には今日だけがあって、それがたまたま次の今日に繋がっているだけ」

 突然画面が塞がれ、さくらの顔が見えなくなった。

「見えないよ」

「ごめん、樹の顔を撫でてみたんだけど、やっぱり画面は画面だね」

「やる事が一緒だな」

「樹も同じことしたの?」

「さくらが寝ている間に」

「ふふっ」

「何?」

「似たもの同士」

「かな?」

「付き合っているうちに段々似てきたんだよ」

「アニマルさくら」

「こら、そこでぶち壊しちゃだめでしょ」

「ぶち壊した?」

「まだ勉強不足だね」

「へいへい」

「寝るよ」

 突然の消灯宣言だった。かなり無理をしていたようだ。時計を見るとまだ九時だった。

「おやすみ、さくら」

「おやすみ、樹。私の寝顔を見てもいいよ」

「そうする」

「ふふっ、なんだか添い寝されているみたい」

「同衾ってやつ?」

「……違うと思う。夜更しして寝坊しないようにね」

「はいはい」

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