第47話 2020年3月31日(火)
「おはよう」
樹が先手を取って言った。
「おはよう」
さくらが半分寝た状態で答えた。欠伸をしている。
「誕生日おめでとう」
欠伸が止まった。
「ありがとう」
少し目が覚めたようだ。言葉がはっきりしている。
「これ最初?」
「もちろん、今起きた所だもん。これを狙ってたの?」
画面の向こうのさくらに少し元気が戻ってきた。
「目覚ましかけた。ついでに寝顔も見ようと思って」
「こら、悪趣味。せっかくいい感じだったのに、何でぶち壊そうとするの?」
「見ていいって言ったじゃん」
「わざわざ早起きしてまで覗きに来るとは思ってなかったわ」
「まあまあ。今日はクラス発表と学生証交付があるから、終わったら会いに行くよ」
「うん、待ってる」
樹は今日受け取ったばかりの仮学生証をテーブルの上に置いた。通学定期を買うためにはこれが必要だった。
「クラスはJ組で、これが学生証」
続けて学生証の横に小さな紙袋を置いた。
「これは誕生日プレゼント」
「ありがとう、開けていい?」
「もちろん」
袋の中から出てきたのは薄いピンク色のストラップだった。さくらの名前と誕生日が彫ってあった。樹はポケットから同じ物をもう一つ取り出してみせた。そちらは青で樹の名前と誕生日が彫ってあった。
「えーーっ! 信じられない」
「何が?」
何か失敗したのかと不安そうに樹が聞いた。
「嘘……そんな事あるんだ」
そう言うとさくらは袋を枕の下から取り出した。
「これは私から。樹の誕生日はかなり先でしょ」
さくらはそれ以上理由を言わなかった。
「ありがとう。開けていいかな」
樹もそれ以上は言わずに最初で最後の誕生日プレゼントを受け取った。
「もちろん。驚くよ」
「そりゃ楽しみだ」
樹が袋を開けると中から青いストラップが出てきた。樹の名前と誕生日が彫ってある。
「えっ、これ……」
「驚いたでしょ」
「マジか」
「しかも、これ」
さくらは自分用に買ったピンク色のストラップを取り出した。さくらの名前と誕生日が彫ってあった。
「これ、どれくらいの確率なんだろう?」
机の上には四本のストラップが並んでいた。フォント以外は全く同じだった。ピンクが二本、さくらの名前と誕生日が彫られている。青も二本、樹の名前と誕生日が彫られている。
「誰かに話しても信じないだろうね」
「俺達が知ってればそれで充分だよ」
「そうだね。ねえ樹、自分用のストラップ交換しない?」
「確かに同じ物二本持っていても仕方ないしな」
「じゃあ、これあげる」
さくらが自分で買った自分用のピンクのストラップを渡した。樹も自分用の青をさくらに渡した。
「二人一緒って感じがいいね」
さくらが自分のストラップを眺めながら言った。ベッドから青とピンクのストラップが寄り添うようにぶら下がっている。樹は自分のスマホにつけてみた。
「学校につけて行くのはちょっとハズいな」
「何でよ?」
「だから男子校なんだって」
「別にいいじゃない。悪い事してる訳じゃないんだし」
「入学早々にさらし者にされそうだな」
「学校はいつから始まるの?」
「来週から」
「授業が終わるのは?」
「三時前」
「それから電車に乗って帰ってくるんだよね?」
「ここに着くのは四時半過ぎかな」
繋いだ手に力が入った。
「三月が終わらなければいいのに」
さくらの心からの言葉だった。
「今年の三月は一番楽しくて幸せだった。樹がいて、みんながいて、色んな事があって」
さくらにとっては人生で一番輝いた三月だった。
「今日が三月一日だったらいいのに」
「合格発表前日だな。また山田の絶叫聞かされるのか」
「ふふ、そうしたら明日にはまた大泣きだね」
「その後はずっと図に乗りっぱなしでな」
「しょうがないよ、香澄ちゃんだから」
「それだけ? 俺もそれくらい簡単に免罪してくれないかな」
「それはダメ。樹の場合は許しの儀式が必要でしょ」
儀式が何を意味するのかはお互いに分かっている。
「それならいくらでもやらかすんだけどな」
「樹はもう充分やらかしたから、しなくていいの」
「そんなに?」
「かなり。思い出したらムカついてきた」
「免罪は?」
さくらは手を伸ばして樹のマスクを取った。
「それには儀式が必要だね」
画面の中のさくらが言った。
「樹、初めて会った頃から変わったよね」
「そうかな?」
「お馬鹿は相変わらずだよ」
「それが言いたかっただけ?」
「ううん。弱くなった」
「そりゃ、この足じゃ蹴れないって」
「そういう意味じゃないって分かってるでしょ」
「まあ……ね」
「悪い事ばかりじゃないよ。弱くなったおかげで、人の弱さも受け入れられるようになったでしょ。私と家族がお互いに知らないふりしているって知った時に怒ったでしょ」
「ああ、あれね」
その件に関しては未熟だった自分に少し恥ずかしさを感じていた。
「樹は自分に厳しいから、弱さを受け入れられなかったんだと思うよ」
「そんな事ないって。自分に甘いよ。正直、ヘタレさに嫌になる時がある」
「ほら、そういう所。自分に甘い人はヘタレさを自己嫌悪したりしないよ」
「はいはい。どうせドMの脳筋です」
「高い水準を自分に要求する事を恥じる必要はないんだよ。でも、人は強いだけじゃいられない。それも本当は分かっているでしょ?」
樹は認めたくなかったが素直に答えた。
「うん。人の痛みを知ったって所かな」
「多分ね。今まで樹には起こらなかった事だから」
「うん」
「大事な人を失う事は怖いし、怖ければ弱くなるんだよ。樹は他人の弱さを受け入れられるようになったでしょ?」
「多分」
それは事実だった。
「ねえ、樹」
「ん?」
「他人の弱さを受け入れられるなら、自分の弱さも受け入れて」
黙る樹をそのままに、さくらは続けた。
「それは恥ずかしい事じゃない。当たり前の事なの」
「さくら……」
「一人じゃ無理。素直に人に甘える事をおぼえて。私は樹のお陰で最後は素直に甘えられた。そのお陰で一人じゃなくなった」
樹は何も言えなくなった。
「だから樹も強くなろうなんて思わないで。心は筋肉とは違うの。痛みを与えても強くはならない」
樹は画面のさくらをじっと見続けた。
「弱くていいの。何でも自分のせいだと思わず、差し伸べられた手は素直に掴んで」
ここでさくらは話を切って少し休んだ。話すのが辛くなってきているようだった。
「約束したでしょ。私の墓標にはならないって」
「約束だらけだよ」
「束縛したい訳じゃないの。生きている間は私を大事にして。でも、その後は自分を大事にして」
さくらは呼吸を整えた。
「ねえ。今から言う事、私の後に続けて言って」
「ん?」
「その健やかなるときも、病めるときも」
そのフレーズには聞き覚えが有る。さくらが何をしようとしているのか分かった。
「その健やかなるときも、病めるときも」
さくらが言った通りに続けて言った。
「喜びのときも、悲しみのときも」
「喜びのときも、悲しみのときも」
「富めるときも、貧しきときも」
「富めるときも、貧しきときも」
「死が二人を分かつまで、愛することを誓います」
「死が二人を分かつまで、愛することを誓います」
樹は心から言った。終わるとさくらが満足そうに笑った。
「今の言葉一生忘れないよ。おやすみ、樹」
枕元の音で無意識から覚めた。いつの間にか眠っていたようだ。スマホが鳴っている。アプリを切った記憶はなかった。
「さくら?」
「ごめん。寝てたよね」
時計に目を走らせると十一時半だった。あと三十分で日付が変わる。
「いつでもいいって言っただろ」
「ねえ、樹。わがまま、言っていい?」
「いいよ」
「会いたい。来て」
「それはいいけど、面会時間外に入れるのかな?」
「必要ないよ」
「なんで?」
「今、外にいるんだ」
「え?」
「隅田公園。夜中だから誰もいないよ。これならコロナも大丈夫でしょ? 」
「よく外出許可が降りたな。しかもこんな時間に」
「降りてないよ」
「おいっ! それって」
「抜け出して来ちゃった」
「ダメだろ。何かあったらどうするんだ」
「分かってるよ……それでも来たかったの。今夜しかないから」
「分かった、すぐに行く。どこにいる?」
「墨田区側。言問橋から下に降りた所」
樹は大急ぎで着替え、パーカーを羽織ると慌てて家を出た。隅田公園は川を挟んだ両岸にある。台東区側は浅草に近いため比較的明るいが、墨田区側は夜になると人通りも少なく薄暗い。治安が悪い訳ではないにせよ、病人が一人でうろつくような時間と場所ではない。
家を飛び出した樹はエレベータの呼出ボタンを押した。なかなか来ないエレベータに苛立って何度もボタンを押した。エレベーターに乗り込むと今度は『閉』ボタンを連打した。ドアがやけに遅く閉まるように感じられた。一階に着くと体当たりするように入口のドアを開け、外の通りを西へ向かった。走ると接地の衝撃で左足が痛んだ。仕方ないので、左足は地面を擦るように低く踏み出すようにした。三ツ目通りに辿り着いた所で赤信号に捕まったが、車は一台も走っていない。チラッと右を見ると交番は無人のようだ。信号を無視して渡った。交差点を渡り切った所で左足が段差に引っかかった。縁石の上に倒れ込み、折れた脛が縁石の角を直撃した。
「がっ……!」
脛の上に全体重がのしかかる。左足がもう一度折れたかと思うような衝撃が走った。あまりの激痛に歩道を転げ回った。痛みが収まるとガードレールに捕まり、何とか立ち上がる。左足に体重がかかると痛みが襲って来た。ガードレールを支えに使い、左足を引きずりながら右足で跳ねるように坂を登って行く。左足からの出血が点々と歩道に残った。
上り坂途中の階段を降りて隅田公園に入ると周囲を見回した。暗くて遠くまで見えない。桜の季節になると日中は花見客でごったがえす公園だが今は無人だった。痛む左足を引きずりながら園内をのろのろと歩いてさくらを探した。
さくらはパジャマ姿のままだった。桜を見上げる後ろ姿が見えた。ようやく見つけた。樹が自分のパーカーをさくらの肩にかけるとさくらが振り向いた。マスクもしていなかった。
「ありがとう、樹。来てくれて」
開口一番さくらが言った。
「それはいいけど、大丈夫か? まだ寒いし、これが原因なんてやめてくれよ」
「今回だけだよ。行くなら今しかないって思ったんだ」
樹はそれ以上は責めなかった。目の前の桜を見上げた。
「桜、見られたね」
「うん……きれい」
風が吹いた。散った桜が雪のように舞い降りてきた。黒い無限の宇宙を舞台に無数の白片が舞っていた。樹とさくらは魂を吸い取られたように無言でそれを見上げていた。同じものを見て、同じ事を感じていた。
風が止むとさくらが聞いた。
「ねえ、それどうしたの?」
指は樹の顔を指している。
「顔に何かついてるよ」
樹は顔をさすったが、どこなのか分からなかった。
「ここだよ」
さくらが樹の顎を指先でこすった。
「血じゃない」
「さっき転んだ時についたんだな」
「大丈夫?」
「実を言うとかなり痛い」
「初めて私のために血を流してくれたね」
少し意地悪い響きがあった。
「コケただけだって」
さくらは樹の顔に手を伸ばし、額の傷跡を親指で撫でた。
「これ程じゃないけど満足しておくよ。ちょっと妬ましさが紛れたし」
その後に申し訳なさそうに付け加えた。
「樹が怪我した事を喜んでる訳じゃないからね」
「分かってるよ」
さくらは笑顔に戻ると、拝むように手の平を体の前で合わせて言った。
「それでね、足怪我しているところ申し訳ないんだけど」
「まだあった」
「ここまで来るのに体力使い果たしちゃった。病院まで連れてって」
そう言って今度は両腕を樹に向かって伸ばした。
「おんぶだぞ」
「うん」
痛む左足をかばいながら何とか中腰になった樹の背中にさくらが乗った。驚く程軽かった。
「行きまっせ、お客さん」
「うん」
肩に回された両腕に力が入るのを感じた。さくらを背負ったまま慎重に歩き始めた。また風が吹いて桜が舞った。二人で白と黒の小宇宙の中をゆっくりと歩いた。
「樹」
「私、樹と会えて幸せだったよ」
「俺もさくらと会えて幸せだよ。人生が変わったよ」
「私は何もしてないけどね」
さくらは笑っていた。
「俺だって何もしてないよ」
「いつも何かしなきゃいけない訳じゃないよ。何もしてなくても何かが生まれる事はあるんだよ」
樹は公園から通りに上がる階段を登り始めた。バランスを崩さないよう慎重に一歩一歩登って行く。集中する樹を邪魔しないためか、さくらは何も言わなかった。背中に小さな体のかすかなぬくもりを感じた。
「樹」
階段を登りきると耳元でさくらが言った。
「なに?」
樹は軽く上がった息で答えた。
「私、樹の事が好きだよ」
「さらっと恥ずかしい事を言うなあ」
「いいじゃない、本当の事なんだから。言いたかったの」
「知ってるよ」
樹はゆっくりと歩いて言問橋を渡り始めた。
「じゃあ、次どうすればいいかも分かってるよね」
「俺もさくらの事が好きだよ」
夜の言問橋は無人で誰に聞かれる心配もないのだが、それでも改めて言うのは少し気恥ずかしかった。
「うん……」
満ち足りた声だった。橋下の隅田川は暗く、対岸に浅草の明かりが見える。足元を見ると橋の歩道にタイルが埋め込まれている。タイルには桜の絵が描いてあり、右下に『さくら』とひらがなで書いてあった。
「樹、私幸せだったから」
「ああ」
「自分を責めないでね」
「何の話?」
「樹、」
両肩に回された腕にギュッと力が入った。後ろからさくらに抱きしめられていた。
「ありがとう」
また風が吹き桜吹雪が舞った。樹は自分の周囲に舞い散る桜を放心したように見上げていた。白い無数の花弁は風に流され、黒い隅田川の上を塊となって飛んで行き、やがて風に煽られて黒い宇宙の中へ散り散りになって消えていった。それを呆然と見つめていた樹はさくらに貸したパーカーが地面に落ちる音で我にかえった。スマホが鳴った。画面を見るとさくらの母からだった。通話ボタンを押して電話に出る。
「はい、樹です」
「樹君、さくらが……」
やはり大騒ぎになっているようだ。安心させるよう出来るだけ落ち着いた口調で伝えた。
「隅田公園にいました。今から連れて帰ります」
無言の返事が返ってきた。怒っているのだろうか。
「あのう……」
恐る恐る言うと、ようやく返事が返ってきた。
「そう………………あの子。あなたに会いに行ってたのね」
かすれて震えた声に違和感を感じて初めて気づいた。背中が軽い。ぬくもりを感じない。
「さくら?」
電話の向こうから聞き覚えのある声が聞こえた。さくらの主治医だ。
「23時58分、死亡を確認しました。ご臨終です」
膝から力が抜けコンクリートの上にへたり込んだ。橋の上には自分独りしかいない。桜が消えていった方向に目を向けると隅田川の川面は無限に暗く、その上の黒い虚空にはもう何も見えなかった。
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