第48話 2029年3月31日(土)

 ドアを通り抜け病院の屋上に出る。前に見た時と大きく変わった様子はないが、全てが以前よりも古びたような気がする。大量に干された洗濯物でできた通路を抜けて東の端を目指す。最後のシーツの列を抜けると視界が開けた。屋上の端まで行くと遠くに隅田公園の桜が見えた。桜は変わらない。

 およそ花見に向いた場所ではなかったが構わなかった。鉄柵にもたれて遠くの桜を見つめる。ビルの隙間から見える桜は鮮明に白く、川の両岸に広がっていた。ここから見えるのはその一部だけだったが、それでも十分に美しかった。屋上には誰もいなかった。独りの花見はつまらない。誰かと一緒に見る事に意味がある、その通りだった。同じものを一緒に見て、同じ事を一緒に感じる。それが大事なのだ。しばらく桜を遠目に眺めた後、立ち去ろうと決めた。これで本当に約束を果たしたと言えるのかどうか自信が持てなかった。

 風に運ばれた桜の花びらが舞っていた。目の前に漂って来た花びらをそっと掌で受け止め指を閉じる。掌にかすかに感触を感じる。それは確かに手の中にあった。その時、耳元に鮮明な声が響いた。周囲を見回すが誰もいない。もう一度周りを見回し、大きく息をついた。これが最後だと分かっていた。その声は二度と戻って来ない。

 樹は手の中の花びらをつぶさないようそっと胸のポケットにしまうと、階段を降りて行った。屋上と違い、院内の廊下は騒がしかった。足を止め通路の先をじっと見た。この先にあの病室があった。さらに階段を降り一つ下のフロアに降りた。目的の病室にたどり着くと、ドアを開けて中へ入る。その病室も個室だった。ドアを開けた正面にある窓から外を舞う桜の花弁が見えた。樹が部屋に入ると病室の住人が振り返った。出産で疲れていたが顔は誇らしげだった。胸の上には生まれたばかりの新生児が乗っていた。椅子に座るとベッドから手が伸びてきて、左眉の上に残る薄い傷跡を指先でなぞるように撫でた。樹はまだ目も開かない新生児の頬を指の背で優しく撫でた。

「名前どうする?」

「さくら」

「え?」

 答えを聞いて逡巡した。

「ははは、うそ。それだけは絶対にダメ」 

 何かにつられたように二人同時に窓の外を見た。桜の祝宴が続いていた。


 病院を出ると樹は東へ向かって歩いた。交差点を渡ると言問橋が現れた。橋の正面には空を背景にスカイツリーが見える。あの頃と全く変わらない。橋の上を渡りながら川下を眺めた。両岸に並んだ桜の白が隅田川の群青を彩っている。川面を渡って来る風が心地良かった。橋の途中で立ち止まり、足元のタイルを見た。枝先に咲く桜の絵も、その下に刻まれたさくらの三文字もあの日から全く変わっていなかった。

 胸のポケットから屋上でつかまえた桜の花弁をそっとつまみ出し、指を静かに開いた。開放された桜は別れを告げるように樹の掌の上で数回くるくると舞うと、隅田川の上の空間へ飛んで行った。三月最後の日差しは明るく、眩しさに目を細めながらその行く先を目で追う。春の暖かな空気の中、白片は舞い散る他の桜に混ざって空の青の中へ溶けて行き、やがて見えなくなった。

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3月のフェルマー たづれい @Tazurei

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