第13話 2020年2月26日(水)
「分かっていると思うけど、私の事は病室で言わないでね」
今日は特に寒く、昼間でも気温は十度以下だった。窓の外に見える木が寒々とした裸の姿をさらしていた。昨日から二人のデートスポットになった喫煙所跡の壁は長年のヤニが黄色く染み付き、ポスターの貼ってあった場所が白く浮き上がって見えた。
「聞こえちゃマズいって事だろ。分かっているよ」
「うん」
「その件は気を付けているよ。さくらの家族も周りに知られないように気を使っているのに、俺が原因で知られたなんて許されないだろ」
「うん……」
さくらの口調に迷いがあった。
「何?」
「え?」
「言いたい事がありそうだから」
「分かるようになったんだ、成長したね」
「お陰様でね。で、何?」
「うん」
しばらく迷った後、さくらは言った。
「私の家族にも聞こえないようにして」
「まさか。知らないの?」
「知っている」
「ああ、確かに部外者の俺が知っていたら……」
樹が言いかけた所でさくらが遮った。
「私が知っているって事を知らないの」
樹は言葉を失った。
「お母さん達は私にあと数ヶ月しか生きられないって言えなかったんだと思う」
「でも知っているんだよね」
さくらは頷いた。
「立ち聞きしたの。診療中に私だけ先に部屋に戻れって言われて。何か重要な事を話すみたいだったから帰ったふりして隠れて聞いちゃったの」
「それで気付いていないフリを?」
「お母さん達は私の前では無理して明るく振る舞っている。その姿を見ると、どうしても知っているとは言えなくて」
「一番泣きたいのはさくらだろ。なのに誰にも言えずにずっと一人で……」
樹の声には怒気が含まれていた。さくらがまた頷いて肯定した。
「そうだね、怖い。しばらくは夜に一人で布団の中で泣いたよ」
夜中に一人でいると誰もいない世界に一人だけ取り残されたような気がしてくる、さくらはそう言った。その孤独感を思うと樹の胸が痛くなった。
「でも、それは私がそうする方を選んだから。思っている以上に辛いんだよ、自分のせいで誰かが泣く姿を見るのって。それよりは自分が泣いた方が遥かに楽な時があるの」
樹には受け入れられなかった。
「親子……なんだ」
「え?」
「考える事とやる事が同じ。相手が泣く姿を見たくないから、本当の事を言わずに自分が一人で泣く方を選ぶ」
「そうかもね……」
「俺が口出しする事じゃないのは分かっているけど、泣くなら別々じゃなく一緒に泣いた方がいいと思う」
「うん……」
樹は言い過ぎだと思ったが、止められなかった。既に傷だらけのさくらがさらに傷付く姿を見たくなかった。
「お互いに知らないふりして、陰で泣いて、嘘をつき合ってたら、最後の瞬間に全てを後悔すると思う。もしさくらが俺に何も打ち明けてくれていなかったら、俺は後悔する事になるっていたと思う。一人で苦しんでいる事に気付いてあげられなかったって一生自分を責め続ける事になっていたと思う」
「うん……」
「さくらの家族だって同じじゃないかな。何もできなかったって死んでから後悔しても、何かするチャンスは残ってない。もう何もできなければ、ずっと罪悪感と一緒に生きていかなきゃならなくなる。その姿を見てさくらも後悔するような気がする……」
「樹は優しいね」
「優しいからじゃないよ、これ以上さくらが傷つく姿を見ると俺が辛いからだよ。そうしたいと思ったから、そうしているだけ」
「とことん馬鹿だね」
さくらは昨日マーキングした縄張りに顔を埋めた。
「そういうのを優しいって言うんだよ」
「そうなのかな」
「相手の事を思うのは自分のため、なんて普通言わないよ」
「それって当たり前の事じゃない? 何かのためって言っても、結局は自分がそうしたいからそうしているだけだろ? だったら動機が何だろうと全て自分の為じゃん」
「樹らしい意見だね」
「素直に自分がそうしたいからだって言えばいいのに」
「私の事も?」
「そうだよ。さくらを好きになったのは俺がそうしたいから。さくらに泣くよりも笑って欲しいのは俺がそれを見ると嬉しいから」
樹はいつのまにか言い過ぎた事に不安になってきた。
「……自分本位かな?」
「正直過ぎるんだよ。私達は正直じゃない。お互いのために嘘をついていると信じようとしていたけれど、多分そうじゃないよね?」
樹は何も言わずに続きを待った。
「人のためにつく嘘なんてない。全部自分のため。そうでしょ?」
「俺には自分の事しか分からない。俺はさくらに一人で苦しんで欲しくないし、後悔もして欲しくない」
「徹底して嘘がつけないんだね。それに私はもう一人じゃないよ」
さくらはいつもの笑顔で言った。
「辛いことや痛いことが沢山あったから、きっと帳尻合わせに神様が幸せをプレセントしてくれたんだよ。それが樹で良かったよ。初恋の人と死ぬまで一緒にいられる人って一体この世に何人いるんだろうね?」
澄んだ冬の空気は濁らせる事なく西からの太陽の光を通し、喫煙所跡を温めていた。窓の外を見ると、冬の空で雲が紅く染まっていた。世界は鮮やかな色に満ちていたが、樹の目には全てが色あせて見えた。目の前の笑顔しか見えない。唯一そこだけがまばゆい色彩を放っていた。
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