第12話 2020年2月25日(火)

 学校前の交差点を渡り、樹と日向は裏道へ入った。正面では東京スカイツリーが天を突く。二人共制服を着ていた。学校帰りだった。

「今日も病院?」

 日向が聞く。

「ああ」

 樹は曖昧に答えた。病院へ行くのは事実だ、嘘ではない。診療もリハビリも無いだけだ。右に曲がり一直線の道に入る。正面突き当りが樹の住むマンションだ。松葉杖だとやけに遠く感じる。日向の家はその途中の戸建てだ。

「じゃ」

「ん、また明日」

 日向の家の前で別れた。日向を見舞いに誘おうかと思ったが、さくらと二人きりになるチャンスがあるかもしれないと思い、考え直した。樹は家に着くと着替え、台所にあったパンを適当にかじって腹を満たすと、自称リハビリに出発した。樹の家から病院までは道沿いにほぼ一直線で、距離にして一キロ強だった。普通に歩けば十五分程度だが、慣れない松葉杖ではそうはいかない。昨日と同じく、言問橋を渡った所で少し休憩した。呼吸が落ち着いた所で気合を入れ直し、残りの道程に取り掛かった。


 303号室に入るとさくらは留守中だった。恐らく検査だろう。

「おー、樹。また来たの? 毎日じゃん」

 同室だった子供がまた声を掛けてきた。事情を理解するにはまだ小さ過ぎる。

「退院したら立入禁止って訳じゃないだろ?」

「ああ、寂しくて遊びに来たのか」

「ある意味そうだよね」

 後ろからの声は葉月だった。

「うまくいってるみたいで良かったね」

「そうだね。お陰様で」

「余裕の発言だね。私のベッドから丸見えって知ってるよね? 見てるこっちが恥ずかしいよ」

 葉月の口元が緩んでニヤニヤしていた。

「見られてるこっちが恥ずかしいんだけど」

「なら、いい場所教えてあげるよ。部屋を出て左に行った突き当りを曲がると非常口になってるんだ。昔は喫煙所だったらしいけど、今は倉庫代わりになっているからめったに人が来ないよ。椅子はそのまま残ってるから座る場所もあるし」

「ありがとう」

「いえいえ。夜な夜なさくらちゃんの布団に潜り込んでたアニマルくんには物足りないかもしれないけどね」

「全く違う意味に聞こえるんだけど」

「全くその通りの意味だと思うけど」

 葉月が悪びれずに言い返した時、さくらが点滴棒を押して戻ってきた。

「樹」

「さくら、お帰り」

「ねぇ、あっち行かない?」

 さくらが廊下を指差す。左だ。どうやら樹にだけ教えた訳ではなさそうだ。樹は葉月を見たが、知らんふりを決め込んでニヤニヤしている。

 点滴棒と松葉杖の二人は廊下を突き当たりまで歩いて行った。なるほど、以前は気付かなかったが廊下は行き止まりではなく、右に曲がると非常口があった。その手前に古びたベンチが置かれていた。さくらは椅子に座ると隣に座るよう樹を促した。樹が隣に座るとさくらがじっと見上げて来る。互いに同じ事を求めている事が分かったので、どちらともなく自然に引き寄せられるように顔が近づいて行った。


 唇が離れてもさくらはじっと樹の顔を見ていた。

「ん?」

 怪訝な顔に答えずさらに見続けた後、さくらは言った。

「辛い事は覚悟してね」

「分かってるよ」

 そう言ったものの、樹はこの話題を避けたかった。

「目を逸らさないで。その時は必ずやってくるから」

 樹は前々から感じていた違和感の正体に気付いた。さくらには老人と少女の二つの顔がある。生死について話す時のさくらは年相応の顔ではなくなる。

「この帽子……」

 話しながらさくらは常に被っている白いニット帽に触れた。

「取って樹に見せようかと思ったんだ。現実を理解してもらうために」

「ん?」

「ほら、薬って髪の毛にくるから」

 樹はさくらが言いたくない事を言っていると分かった。

「今、結構おかしな感じになってるんだ」

 ニットから出ている長い髪を見る限り不自然さがなかったので、樹にはその下が想像できなかった。

「帽子の下を見たからって何も変わらないよ」

「ありがとう。多分そう言ってくれると思ってたよ。だから、この世で樹にだけは見せない事に決めたの。樹の記憶に残って欲しくないし」

 そういうさくらは年相応の顔になっていた。

「見せたくないならそうするよ。俺は見ない」

「うん」

 さくらは樹の肩に顔を埋め、くしゃくしゃと顔を擦り付けた。

「何してんの?」

「マーキング。縄張りに匂いつけてるの」

「誰も盗らないよ」

「ここは私だけの場所なの」

 縄張りにされる経験は初めてだったが、何故か心地良かった。窓の外は憂鬱な気分にさせる冬の曇り空だったが、今年だけは冬の風景に暖かさを感じた。

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