第11話 2020年2月24日(月)

 朝、目が覚めても樹は暫く布団の中から出なかった。今日起きたらそれが最後、このベッドで寝る事はもう二度と無いと思うと寂しかった。横を見るとさくらのベッドの上に毛布の膨らみが見えた。昨夜の会話が蘇り、何度も頭の中で木霊した。

 朝食後の診療で樹は正式に退院を告げられた。後は家族が迎えに来て、昼には退院だ。樹は303号室の子供達と親達に挨拶して回る。退院は明るいニュースなので別れに悲壮感は無く、卒業するみたいだった。気持ちが晴れないのは樹だけだった。

「樹、おめでとう」

 何事もなかったかのようにさくらが言った。

「ありがとう」

 樹が機械的に答えると、さくらは周囲に聞こえないよう声を落として素早く言った。

「いいんだよ、私恨まないから」

「俺は戻って来る」

「この馬鹿……」

「それは散々言われた」

「ちゃんと考えてね」

「分かった」

「それならいいよ。元気でね」

 さくらは最後に笑顔で手を振って送り出した。水野樹は退院した。


 樹は迎えに来た母親とタクシーで家に戻り、久しぶりに家で昼食を取った。時計を見ると午後一時過ぎだった。さりげなく青いパーカーを羽織ると玄関へ行き、靴を履いて松葉杖を取った。

「どこ行く気?」

 背後から母が鋭く言った。

「リハビリ。足を休ませないように出来るだけ歩けって」

 嘘だったが、半分は事実である事が罪悪感を和らげた。

「気を付けてよ。一緒に行こうか?」

「いや、大丈夫。松葉杖は散々練習したから。適当に歩いて来るよ」

「携帯持って行きなさいよ」

「はいはい」

 家を出た樹はエレベータの中でほくそ笑んだ。リハビリを口実にすれば簡単に外出できそうだ。マンションの外に出ると目の前の道を西へ向かって歩き出した。少し進むと隅田公園が見えて来た。普段であれば何でもない距離だが、松葉杖では勝手が違った。十日間も寝ていたので体力も落ちているようだった。呼吸が少し乱れた。

 三ツ目通りを越えると平坦だった道が上り坂に変わる。坂を登り切ると視界が開け、目の前に言問こととい橋が現れた。言問こととい橋は浅草と向島を繋ぐ約二百メートルの鉄とコンクリートの塊で、関東大震災後に建設された。片側二車線の車道の両脇に歩道が通っている。坂を登りきった所では上を走る高速道路の高架が閉塞感を与えるが、そこを抜けて橋の上に出ると頭上の空間が一気に開ける。

 川面を吹く強い風を受けながら橋を渡る。これまで数え切れないほど渡った橋なのに、今日はやけに長く感じらる。疲れたので橋を渡り終えた所で少し休憩する事にした。欄干に寄りかかって歩いて来た道を振り返る。対岸まで言問こととい橋が一直線に伸び、その延長線上の空を東京スカイツリーが突き上げていた。この場所からは二つの直線が有機的に結合したかのように見える。


 さくらのベッドのカーテンは引かれていた。普段は開けっぱなしのカーテンだが、今日は別だった。空になった樹のベッドが目に入らないようにして通信教育の課題に取り組もうとしていた。この数ヶ月間は見もしなかったテキストを久しぶりに開いた。無性に普通の高校生と同じ事がしたかったが、全く集中できなかった。思いが只一人に引き戻される。今頃は家に帰って食事をした頃だろうか。友達に電話して自慢気に語っている頃だろうか。十日間の入院、小さな武勇伝。家に戻って冷静になっている事だろう。樹にとって入院は人生の中のちょっとしたイベントに過ぎない。これから日々の生活に追われ、外の世界の日常に浸るうちに、病院の事は記憶の一部になって行き、いずれは忘れる。

 さくらはこれで良かったのだと自分を納得させようとした。このまま行けば何が樹を待っているのかは承知していた。さくらにとっても未練を残す原因となり、心安らかな最期にはならなくなる。だからこれで良いはずだった。それでも理屈で感情は納得させられず、開いたテキストの上に雫がパタパタと落ちた。心の中でもう一人の自分が後悔に苛まれていた。

「あれ、どうしたの?」

 同室の子供の声が聞こえた。

「忘れ物」

 カーテンの向こうから返事する声が聞こえる。さくらは顔を上げ腫れた目で声の方を見たが、見えるのはカーテンだけだった。数秒後に目の間のカーテンが上がり、昨夜と同じように樹が入って来た。

「よっ」

 何事もなかったかのようにいつもの椅子に座る樹をさくらは泣き腫らした目で凝視していた。

「どうしたの?」

「ん、忘れ物を取りに来た」

「そう……」

 さくらは視線を落とした。樹に顔を見られたくなかった。

「忘れ物というか。言い忘れ」

 樹は周囲に聞こえないようさくらの耳に口を近づけて言った。

「最期まで一緒にいる」

さくらはさっと顔を上げて樹を見た。正面から真剣な目が見返して来る。胸が詰まって言葉が出ないさくらに樹が続けて言った。

「死が二人を分かつまで、だっけ?」

 徐々ににさくらの口元が緩み、やがて耐え切れなくなり吹き出した。

「それ、何の時の言葉か分かってる? 結婚もできない歳のくせに」

 さくらの笑いが止まらなかった。

「……」

 樹は気まずそうに沈黙していた。真剣に言ったのに笑われて少し傷ついた表情になっていた。その表情に気付いたさくらが樹を手招きした。

「でも、私はもうできる歳なんだよ。だから、」

 さくらは近づいた樹の首に身を乗り出して腕を回すと、耳元でそっと付け加えた。

「誓います」

 それだけ言うと樹を強く抱き寄せた。それ以上は言葉が出てこなかった。

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