第10話 2020年2月23日(日)
退院を翌日に控えて樹の父が葵とやってきた。退院時に少ない荷物ですぐに病室を引き払えるように不要な荷物を引き上げに来たのだ。元々たいした物は無かったが、それでもバッグ一つ分くらいにはなった。手元に残ったのは明日の着替えだけだった。もうコンビニ袋一つでここを出て行ける。樹は改めて出て行かなければならない時が来たと感じた。
さくらは見舞いに来ている家族と話しているので今は話せない。顔を上げると葉月と目が合った。手招きしている。暇つぶしには丁度良いと思い、樹は最近習得した丸椅子松葉杖で葉月のベッドまで移動した。
「明日が退院だから、今夜が最後なんだよね」
「ああ、名残惜しいね」
「本当に名残惜しいのは私じゃないでしょ?」
「知ってるなら聞くなよ」
「私のベッドからだと丸見えなんだよ、君の夜這い」
「意味違うし」
「どう見ても夜這いだよ。中でヘンな事しちゃダメだよ」
「しねえよ」
「本当はしたいんでしょ」
「何でそうなる」
「好きなんでしょ?」
これは質問ではなかった。樹は黙り込んだ。
「ガキは分かりやすいね。で、今夜が最後だからね」
「それは分かってるよ」
「本当に分かってる?」
「当然」
「本当に?」
「しつこいな、言いたい事があるんだろ。言えよ」
「だいぶ分かってきたね。じゃあ言おうか。さくらちゃんからは何も言わないと思うよ」
「どういう意味?」
「文字通りだよ、お馬鹿」
葉月は続ける。
「一緒にどこかへ出掛けたり、公園のベンチや柱の影で何時間も意味なくイチャついたり、普通の高校生がやるような事はさくらちゃんは一切出来ないんだよ。会える場所は病院だけ。会える時間は面会時間だけ。しかも回りは面会客だらけで二人きりにも中々なれない」
「それは分かってるって」
「じゃあさくらちゃんがそれをどう思うかは?」
「……」
「分かってないじゃん。どうしても臆病になるよ。他の子が当たり前に出来る事が出来ないんだもん」
「別に他と比べるつもりはないんだけどな」
「はぁ……そこじゃないんだって。この前怒らせた時の事思い出してみな。言ってたでしょ、さっさと退院してお友達と遊んで来たらって。あれがさくらちゃんの気持ち。樹とは普段生きてる世界が違うから不安なんだよ」
「……」
「同じ世界で生きていても勇気がいるんだよ。さくらちゃんの場合はなおさら勇気が出ないよね」
「それでもいいのに」
「言う相手は私じゃないでしょ」
「さくらはなんて答えるかな?」
「それは分からないけど、私の勘では大丈夫」
「だといいけど」
「もう一度言うよ、今夜が最後のチャンスだからね。明日はないよ」
「はい、じゃあ寝るよ!」
最後のカーテンが引かれた。樹は人生初の勝負所に緊張したが、いつも通りにカーテンをくぐり、さくらと毛布をかぶった。さくらも分かっていた。
「これが最後だね」
最初の挨拶がこれだった。
「うん」
二人共無言になる。沈黙の間に樹はありったけの勇気をかき集めた。いつも通りに話を始めたら何も言えないまま最後の夜が終わってしまう事は分かっていた。この場、この瞬間しかなかった。
「さくら?」
この前のようにまた喉が張り付いて声がおかしくなっていた。
「ん?」
とりあえず呼んでみたものの、この後何を言ったら良いか分からなかった。
「退院した後も遊びに来ていい?」
思い付いた事をかろうじて言った。
「もちろん。来ないなんて言ったら窓から捨てるよ」
どうやら何も伝わっていないようだった。
「毎日でも?」
「……うん」
今度は少し伝わったようだ。答える声が少し違う。樹は暗闇の中で手を延ばした。指先でさくらの顔に触れ、掌で頬を包み込んだ。柔らかい感触とぬくもりが伝わって来る。目には見えないがさくらの顔は目の前にある。気恥ずかしさと緊張で心臓が苦しかった。最後の言葉を絞り出した。
「毎日会いたい。さくらが好きだから」
ようやく言えた。
「うん。私も毎日会いたい……」
それだけが答えで、その後は沈黙が続いた。こもった毛布の中で互いの呼吸音だけが聞こえる。二つの呼吸が近付いて一つになると止まった。慣れない辿々しさが触れてきた。
唇が離れても鼓動が落ち着くまではしばらくかかった。その間は言葉を交わす事もなかった。
「ねぇ、こういうのってイキナリするものなの?」
毛布を被っているにも関わらず、ささやき声でさくらが言った。
「さあ?」
「普通は手順とか順番があるんじゃないの?」
「知らない。そうしたいからそうするでいいんじゃないの?」
「……何で香澄ちゃん達が散々言っていたのかようやく分かったわ」
「自分に正直と言って欲しいよな」
「本当に正直だったよね。でも何で私?」
「理由って必要? 直感としか言いようがないんだけど」
「そこはちゃんと言わないと怒るよ」
「そう感じたって言うか……」
「急に説明力乏しくなったね。きっかけは何だったの?」
「初めて会った時かな?」
「え?」
「笑顔にちょっとクラッとした」
「それから?」
「最初の夜。弱ってたし、ちょっと効いた」
「うん」
「トドメは怒った理由を知った時」
「それであんな無茶したの?」
「そう言ったじゃん」
「もうしないでよ」
「うん、ここにいられないならやる意味無いしね。で、さくらは?」
「私は初めて会った時は特に何も。楽しくなればいいなくらいにしか思ってなかったし」
「ひどいな。いきなりどうでもいい扱い?」
「会った瞬間とか有り得なくない?」
「それじゃ何で?」
「徐々に」
「この瞬間ってないの?」
「……あるよ」
「何?」
さくらは暫く黙り込んでから答えた。
「…………お馬鹿は知らなくていいんだよ」
「俺だけ言わせといてズルくない?」
「散々ズルい事したから仕返しだよ」
真っ暗な毛布の中で手が伸びて来て、樹の額を優しく撫でた。初めて味わう甘美な感触だった。手で触れられる事がこれほど心地良いと思った事はなかった。つられて同様にした。
かなり経ってからさくらが口を開いた。樹の額を撫でながらずっと考えていたようだ。
「樹、話しておきたい事があるの」
これまでとは違う声だった。
「何?」
樹は昼間に葉月に言われた事を思い出した。答えは決まっていた。
「今から話す事を聞いて。でも今は答えを出さないで。勢いで答えて欲しくないの。明日退院した後に樹の回答を聞かせて」
「分かった」
「じゃあ聞いて」
樹が頷く。暗い毛布の中では見えないが、さくらは察して話を続けた。
「私達に未来はないの」
「ああ、普通の高校生みたいには行かないって事は承知しているよ。場所は病院だけ。時間は面会時間だけ。二人きりになれるチャンスは少ない」
「そこまで考えていてくれたんだ。ありがとう」
これで万事良しと樹は安堵したが、さくらは続けた。
「でも、そういう意味じゃないの」
「じゃあ何?」
さくらは暫く沈黙した。この沈黙に心地良さは少しも感じなかった。
「私はいなくなるの」
背筋に不快な物を感じる。
「そんなに先じゃない」
樹は無意識にさくらも治療を続ければいつかは退院できるという淡い期待を抱いていた事に今更になって気付いた。
「分からない。ここへ来た時は今年の冬は越せないだろうって」
「もうすぐ春……」
呆然と言った。考えがまとまらない。
「季節が変わったら死ぬって意味じゃないよ。その時がいつ来てもおかしくないって事」
樹は言葉を失っていた。
「前に言ったでしょ、ここへ来てから治療は続けてないって」
シーツの上のさくらの手を両手で握り、自分の額を上から当てた。
「色々試したんだよ。でも私には効かなかった。何年も治療したけど、効果が無い事が分かったからやめたの」
「じゃあ、何のためにここに? 治療もしないのに」
現実を受け止め切れない。さくらは静かに宣告した。
「樹、私は死ぬためにここへ来たんだよ」
さくらは温かい液体が自分の手の甲の上を伝わり落ちるのを感じた。
「病気治すのが病院の目的じゃないのかよ」
樹の声は憤怒に溢れていた。不安と絶望は怒りと一体でやって来る。
「医学は万能じゃないんだよ。どんな病気でも治せるなら誰も死なないよ」
樹が鼻をすする。
「でも治せないからといって放り出したりもしない。緩和ケアって言うんだよ。もう治療出来ないと分かった場合には出来るだけ苦しまずに幸せに死ねるようにするの。だから私は苦しまない。苦しむのは私以外の人達」
これが嘘だという事くらいは樹にも分かった。
「この前言ったでしょ。大切な人を失くすとその人の一部も一緒に死ぬって。私が死ねば樹の一部も一緒に死ぬよ」
樹は手を延ばしてさくらの頬に触れた。
「今、死んだ」
暗闇の中でさくらは首を横に振った。樹はまだ何も分かっていない。
「だから一度退院した後に冷静に考えて。手遅れになる前に」
「もう手遅れだよ」
「まだ間に合うよ。退院して戻ってこなければ、いずれは忘れる」
「無理。明日出て行って忘れるなんてできない」
樹がそう言うと、突然毛布の中で唇が軽く触れてきた。
「ありがとう、嬉しいよ。こんなに嬉しかったのは生まれて初めて。だから大事にしたい」
そう言う声にはしっかりとした意思があった。
「樹には何も残らない。辛くて、悲しくて、苦しいだけ。そんな時にどんな顔になるかは散々見て知ってるの」
「何も残らないなんて事はないよ……さくらはここにいるし、俺もここにいる。いなくなっても、いなかった訳じゃない」
さくらの指先が唇に触れてきた。
「この話は今日はここまで。後は退院した後に聞かせて」
今夜はこれで終わりと宣言した。
「ところで、もう終わり?」
三度目の唇は苦かった。
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