第9話 2020年2月22日(土)
午前中の診療で月曜日の退院が決定となった。分かっていた事とは言え、残された時間が確定した事に樹は失望を感じていた。あと二晩で出て行かなければならない。加えて今後の通院予定は思っていたよりも低頻度だった。診察は二週間に一度、リハリビが週一回だ。しかも頻度はどんどん下がって行く。普段であれば喜ぶ所だが、樹は全く歓迎していなかった。完治まで入院していたい気分になっていた。リハビリを終えて303号室へ戻ると、中から香澄の声が聞こえてきた。
「あいつ、見栄張ってハマっ子みたいな事言ってませんでした?」
「そういえば、急行に乗れば学校から十分ちょっとで横浜まで行けるって」
「やっぱり?」
「横浜市って言っても
日向の声も聞こえた。樹は病室へ入った。
「お前ら」
「お、帰ってきたかスベリ止め」
香澄にしか言えない煽りだ。
「そうだな。お前もスベリ止めに受けていれば一緒に高校通えたのにな」
樹の高校が男子校である事は香澄も知っている。
「私みたいなか弱くて可憐な少女をあんたみたいな野獣が二千匹もいる檻に放り込む気?」
「野獣が一匹増えるだけだろ」
「まあまあ。暇なんだよ。結果待ちで落ち着かないけど、どこへも行けないし」
日向がいつも通りの緩い調子でとりなした。
「で、来る先が病院?」
「心配して見舞いに来たんだよ」
「今の会話、何か心配している要素あったか?」
「ほら、友達にいい事があったら詳しく知りたいじゃん」
「暇つぶしって言ってたよな?」
「樹、楽しそうだね」
さくらが羨ましそうに言った。
「私も入れて〜〜」
葉月も加わって来た。
「あそこのベッドの葉月です」
「山田香澄です」
「八島日向です」
相手が名前だけであっても相変わらずのフルネーム自己紹介だった。
「で、二人はぶっちゃけどうなの?」
「は?」
突然の質問に香澄と日向が同時に固まった。
「都内の中学だと卒業したら高校はバラバラになるのが普通でしょ。でも二人は一緒になるかもしれないんでしょ?」
「いや、残念ながら別になる」
樹が当然のように言うと香澄が噛み付いた。
「ちょっと、発表まだなんだけど!」
「はいはい、質問。日向くんは受かりそう?」
樹と香澄の会話を無視して葉月が聞いた。
「こいつは合格圏内」
樹が答えた。
「香澄ちゃんは?」
葉月も当然のように名前で呼ぶ。
「無謀圏」
同様に樹が答えた。
「そんな圏ないんだけど」
香澄が不快そうに言った。
「ふーん。日向くんは香澄ちゃんと同じ学校行くってどう?」
「同じ高校に願書出したって聞いた時は驚いた。もしかしたら唯一人、小中高同じになるかもね」
そう言う日向は嬉しそうだった。
「香澄ちゃんは?」
「そりゃ結構長いし。これだけ勉強がんばったんだから当然、ねぇ」
「ふーん」
言い方が妙に曖昧だった事に葉月は気付いた。
「おい、こいつ自分が勉強がんばったからみたいに言ってるぞ。同じ高校になったらまた家庭教師に使われるぞ」
樹が日向に忠告した。
「人に教えるのって実は良い勉強になるんだけどね。自分がちゃんと整理できてないと人に上手く説明できないんだよね」
「ほら見ろ! 私達はお互いの勉強に協力してたんだよ。ウィン=ウィンってやつ?」
「図に乗ってんぞ、日向。お前のせいだ何とかしろ」
葉月はこれも無視した。
「ちょいちょい。香澄ちゃん、日向君に勉強教わってたの?」
「たまに」
「たまに? 毎日が?」
樹の発言は当然のように無視された。
「教え方うまかった?」
「先生より分かりやすかった」
「いつ頃から?」
「最初は二年最後の期末かな?」
「ほうほう、それは長いね〜〜」
「いや、小学校の時から同じ学校だったんだけど」
「長かったね。よしよし」
二人が帰った後、さくらと葉月が堰を切ったように話し始めた。
「面白いね。あの二人」
「あれ絶対そうだよね。どうしたらいいのか分からない感じ?」
「これからだよ。時間はたっぷりあるし」
この言葉が妙に引っかかった。樹には時間がなかった。
「はい、じゃあ寝るよ!」
今日も消灯するなり樹がやって来た。さくらは何も言わずに毛布をかぶった。
「すっかり夜這い慣れしたね」
「すっかり夜這われ慣れしたね」
さくらが毛布の中で樹の頬をピタピタと軽く叩いた。顔は全く見えない。
「この痴漢、ナースコールするよ」
「主催者が警察呼ぶのはナシでしょ」
「どうしても私を主催者にしたいの?」
「俺はあくまでもゲストだから」
「招いた覚えはないんだけど」
「来るなと言われた覚えもないけど。帰って欲しい?」
「……そんな訳ないでしょ」
「素直な回答するようになったじゃん」
「そのズルさ生まれつき?」
「そんなに?」
「ズルい」
「立派な人間じゃないのは認めるけどさ」
「私だってそうだよ」
「ああ、拗ねて当たり散らしたりとか」
「何か言いたい事でも?」
樹は慌てて付け足した。
「あ、いや。そういう所も含めて俺は好きだよ」
五秒程沈黙してからさくらが答えた。
「自覚のないビーンボールって悪質だよね」
「ほら、人間には欠点が必ずあるって言うし」
「……そういう所も含めて私は好きだよ」
「じゃあOKって事で」
思い切って投げ返したビーンボールは危険球と認識すらされなかったようだ。
「しかも少しズレてるし」
さくらは不満を漏らした。
「何が?」
「お馬鹿には分からないんだよ」
「何でみんなで俺をイジめるかな」
「ガキだからでしょ」
「男子なんてみんなそんなモンでしょ」
「この世の男子全員が自分みたいって事にしようとしてる?」
「みんな似たようなもんじゃない?」
「いやいや、全ての男子に謝った方がいいよ」
「そうかな? みんな考える事もやらかす事も似たりよったりだと思うけどな」
「自分の失敗をみんながやってる事にしてOKにしてない?」
「誰もが通る道なんだよ、きっと」
「通らない子はいっぱいると思うよ。友達みんな同じ事する?」
「んーー。日向はちょっと違うかな」
「そんな感じの子だったね。自然に好かれるタイプじゃない?」
「そうだな。敵はいない気がする」
「人徳だね。誰かさんと違って」
「はいはい、すみませんね」
「それはOKって事にしたんじゃなかったの」
「そこは違うって言う所だろ」
「いいんじゃない? そういう所も含めて樹なんだから。他人になろうなんて思わない方がいいよ。そもそも無理だし」
「少し変わるくらいは出来るかもよ」
「ある程度はね。でも人間そのものが変わる訳じゃない」
「悲観的だなあ」
「人がそんなに便利になれるわけないじゃない。服を着替えるみたいに人格を変えられたらただのサイコパスだよ。そんなの褒められた事じゃないし、信用もできないでしょ」
「まあ、確かにね」
「私だって他の人間になれるならなってみたいよ」
真っ暗な毛布の中で見えなくても、それを心から言っている事は容易に感じられた。
「でもそれは起こらない。脱げない服みたいなものなの。他人の服は自分の物にはならない」
言葉の重みに樹は何も言えなかった。
「だから与えられた自分の服で死ぬまで踊り続けるしかないの、好き嫌いには関係なく」
「不適切発言。ここ病院」
ようやく突っ込み所を見つけて一言返せた。この言葉に反応したのか、思い出したように突然さくらが話題を変えた。
「ねぇ、人間って生まれ変わるのかな?」
「さぁ、死んだ経験がないから想像つかない」
樹はこんな回答しか出来ない自分がマヌケに思えた。さくらは思い出すように続ける。
「沙耶がいなくなった次の日に新生児室の前を通ったの。赤ちゃん達が並んでて、もしかしたらそのうちの一人が沙耶かなって気がしたの」
回答を持っていない樹は何も言えなかった。
「ここで死んだ子は次の人生もここから始まるのかな?」
「次はもっと長く生きられるといいね」
樹に言える事はそれくらいしかなかった。さくらは人の死を何度も見てきたかもしれないが、樹は一度も見た事がなかった。
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