第32話 2020年3月16日(月)

 智草は電源ボタンを押してスマホの画面を消した。今日は病院に行くので一緒に行けないと樹から連絡があった。自分を避けているのではないかと不安になったが、回答が怖くて何も聞けなかった。智草はベッドの上で膝を抱えながら自分らしくないと思った。恋愛というのはもっと楽しいものだと思っていた。幸せな気分で胸が一杯になる毎日を想像していた。でも、気付いたらとてつもなく臆病になっている自分がいる。こんな気持のまま過ごすのは辛すぎた。


 樹は個室のドアを開けた。ベッドに座っていた桜が顔を向け樹を見た。しばらくの間じっと樹を見つめると、その目から大粒の涙がこぼれ出し、頬を伝って布団の上に落ちた。さくらが両腕を大きく広げた。樹が近づくとさくらが体当たりするように抱きつき、腕を背中に回した。温かいものが樹の肩口に広がった。

「樹……」

「さくら……」

「お願い、ギュッとして」

 樹が言われるままに腕で強く抱き締めると、さくらも同じようにした。肌から感じられる体温があった。鼻腔に漂って来る匂いがあった。五感の全てで存在を感じる事ができた。二人はしばらくの間動かなかった。やがてさくらは顔を上げると自分のマスクを外し、次に手を伸ばして樹のマスクを外した。

「それは……」

「いいの。その代わり外では気を付けて」

 さくらはもどかしげにそれだけ言うと樹の口を塞いだ。


「お母さんに知ってる事をカミングアウトしちゃったの」

 さくらが樹の胸へ話しかけた。二人は不自然な姿勢で抱き合ったまま話していた。さくらの腕には何本かチューブが刺さっていたので完全に横を向く事ができなかった。

「それで個室?」

 さくらのこめかみに頬を着けたままの樹がさくらの耳へ向かって言った。

「緩和ケアは面会制限を厳しくない代わりに、他の患者からの隔離が必要なの」

「じゃあ、303号室には?」

「もう私があそこへ戻る事はない」

「部屋の子達には?」

「葉月ちゃんにだけは本当の事を言ったよ、最後のお別れをしたかったから。他の子達はまだ小さいから病室を移るとだけ伝えたの。これが最後だって薄々感づいていたみたいだけど、笑顔でお別れしてくれた」

「一人になっちゃったね……」

「一人じゃないよ。樹がいる」

 樹にはさくらが自分に会う為に払った犠牲の大きさが理解できた。殺風景な病室を見回す。さくらの命の終着点はこの部屋に決まった。どうにもならない理不尽さに胸が痛かった。


「手はこまめに消毒して、出来るだけ人との接触は避けて」

 画面の中でさくらが言った。消灯時間は過ぎていたが個室では周囲をはばかる必要がなかったので、毛布はかぶっていなかった。

「分かった。細心の注意を払うよ」

 さくらの命がかかっているので、樹は真剣に聞いた。面会中は諸々の事に忙しかったので、今は夜の布団の中で事務連絡中だった。

「入口は閉まってるから警備室の側から入って。毎回手続が必要だけど、入館証がもらえるはずだから」

「今日もそれで入ったから大丈夫。追い返されるかと思ったけど、すんなり入れてくれた」

「先生が警備室に連絡しておいてくれたんだよ。私達の事を知ってるから」

「え?」

 初耳だった。

「バレてないと思ってたの?」

 樹の様子からそれは明らかだ。さくらは香澄を思い出した。

「退院した後も毎日病室に入り浸る患者なんかいないよ。それに、あれだけ喫煙所跡に二人で頻繁に出入りしてたんだよ? 見られるに決まってるじゃない」

「みんな忙しそうだし気付いていないと思ってた」

「そんな訳ないじゃん」

「うわ、恥ず」

「私も言っちゃったし」

 少し気まずそうにさくらが言った。

「言っちゃった?」

「だって毎朝、今日は彼氏何時に来るとか聞かれるから」

「おい」

「もう分かってる感じだったし。それに……少しくらい自慢してみたかったし」

 これが本音だったようだ。

「じゃあ、俺達が喫煙所跡に向かっている時って」

「ステーションスタッフは全員知ってたと思うよ」

「あの時、あいつら今からしに行くんだって思われてたんだ」

「多分」

「それって見られながらしてるのと同じゃない?」

「違うの、そこは」

 さくらが一生懸命否定した。

「戻る時なんて、湯気出てそうって見られてた訳だろ?」

「分かりなさいよ。その瞬間を見られなければいいの」

 樹基準では殆ど変わらないが、さくら基準では大違いらしい。

「そうか。個室で良かった」

「そうだよ。会えなかった一週間分を取り戻さなきゃいけないんだから」

「今日一日で三週間分は取り戻したと思うけど」

「まだ足りない」

「食欲旺盛だね」

「私には樹が不足しているの」

「はいはい。明日もお届けしますよ」

「大盛ね」

「特盛で」

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